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史 跡
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赤穂義士の墓所へ
大高源吾の墓 所在地:大阪市中央区中寺1丁目 「薬王寺」墓地
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ、
谷町7丁目交差点の通りを西へ入る。1つ目の筋を北へ、右側
大高源吾忠雄(源吾を源五としている資料も多い)は20石5人扶持、中小姓で膳番元方、金奉行、腰物方と色々な役職を兼務している。源吾は大石内蔵助の腹心として、最も信頼されていた中堅で、その命を受け、同志の結束を固めるため、赤穂−大坂−京都−江戸と東奔西走した。
  茶道と俳諧に親しみ、談林派の了我法師(桑岡貞佐)や水間沾徳の門に学び、榎本(宝井)其角とも親しかった。俳号は子葉。著に1697年(元禄10年)に俳句文集『丁丑紀行』を、討ち入り準備のための奔走のさ中の1702年(元禄15年)仲夏、関東へ旅立つ師の了我法師のはなむけとして句集『二つ竹』を京都で私費出版している。
 江戸に入ってからは、上方商人脇屋新兵衛と称し、吉良邸の動向を探るため、吉良家出入りの茶の湯の宗匠四方庵宗へん(彳に扁の字)に弟子入りし、討ち入り当日の12月14日の夜に吉良屋敷で茶会の催しがあることを突き止めたのは有名な話である。切腹した時の年齢は32歳。
討ち入り義士の1人、小野寺幸右衛門(義士小野寺十内の養子)は実弟である。

[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社
薬王寺 玉作山薬王寺の山門。山門の傍の石碑には「初代中村富十郎墓」とあるように、この富十郎ほか、岩井半四郎、片岡仁左衛門など江戸時代に活躍した歌舞伎役者の墓が多くある。
大高源吾の墓は中央に「刃無一剣信士」、右には「元禄十六年未年」、左には「二月初四日年」。中段には「大高氏」と刻まれている。
この墓は別ページに記載した「天川屋利兵衛」の子孫が建立したと伝わる。
大高源吾の墓
俳句の部分拡大 写真はちょっと見難いが、墓の台座に源吾が切腹に臨んだ時に詠んだ句『梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の川』、また、側面には辞世の句とされている『山をぬく 力も折れて 松の雪』が彫られている。

史跡-072/TTL-306

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