|
所在地:大阪市中央区中寺1丁目「福泉寺」境内
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ、谷町7丁目交差点の通りを西へ入る。1つ目の筋を南へ、左側 |
堀部弥兵衛金丸(ほりべ やひょうえ あきざね)は、浅野家3代に仕えた元江戸留守居役で、禄高
300石、リタイヤして年金(隠居料20石)を得ていた。討ち入る義士の中では最年長者で、切腹したときは77歳であった。
弥兵衛の養子となった安兵衛武庸(やすべえ たけつね)は江戸常詰馬廻、禄高は200石。旧姓は
中山、実父は下越後新発田藩溝口信濃守家来で200石取りの身であったが、失火の責任で浪人となり、父が病死後は母方の親戚に引き取られ育った。16〜7の頃から剣術修行のため、越後中を廻遊、19歳で江戸に出て、剣客堀内源左衛門に師事し、21歳の頃には代稽古を勤めるほど腕を上げていた。
ご存知「高田の馬場の決闘」で叔父・甥の縁を結んだ菅野六郎佐衛門の助太刀で勇名を轟かしたのが中山安兵衛が25歳のときである。講談や浪曲などでは「のんべえ安」、「喧嘩安」と喧伝されているが、その実像は、生活ぶりは慇懃で、酒はたしまぬ下戸であったとのことである。
仇討ちの急進派の旗頭として、活躍。上方同志の悠長さにあき足らず、一時は江戸の同志だけで仇
討ちを実行しようとした。切腹したときの年齢は34歳。
なお、安兵衛には実子がおらず、これも弥兵衛養子の九十郎が後に、細川家に召抱えられ、堀部家は熊本にその子孫家があった。
|
[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社 |
|
福泉寺の山門。
同じく赤穂義士の大高源吾の墓がある薬王寺は筋向い。原惣右衛門の墓のある長久寺も近くにある。 |
墓は堀部弥兵衛と安兵衛の合墓である。
中央に「堀部墓 釈妙勝信女」、右側に「弥兵衛 釈宗香信士」、左側に「安兵衛
釈宗亀信士」の名と、右側面には20名、左側面に10名の法名がある。
正面の下の台座にはこの墓の施主である、「華屋松女」の名があり、後ろ側に「文化四丁卯稔十一月中旬建之」(1804年)と彫られている。(年が稔の字になっているのは何か意味が有るのか?)
華屋松女なる人は堀部家の子孫を名乗っていたらしいが、直系の子孫はいないので、縁者だと思われる。 |
|