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史 跡
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近松ゆかりの地へ
小春・治兵衛の墓 所在地:大阪市都島区中野町2丁目 「大長寺」内
最寄駅:JR学研都市線「大阪城北詰」下車、太閤園の前を通り、
東野田交差点を渡った北西側にあり
1720年(享保5年)10月14日、天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎にあった「紀伊国屋」の遊女小春が網島の「大長寺」の裏で遺書を残し、心中した。この事件は近松門左衛門の名作、浄瑠璃『心中天の網島』で有名であるが、この事件が起こった時は近松門左衛門(68歳であった)は住吉の遊郭で遊んでいたが、事件を聞き、早駕篭で自宅に戻り、道行の文を書いたとされる。『心中天の網島』は同年12月6日道頓堀竹本座で初演されている。
 大長寺にまつわる話として、吉田東a著『大日本地名辞書』に、豊後・佐伯藩毛利家に伝わる以下のような話が載っている。「我が国で使われている算盤(ソロバン)は中国より、伝わったものであるが、この算盤を伝えたのが、豊臣秀吉の家臣であった森勘八郎高政であり、高政は秀吉の妾・森氏の出で、秀吉の庶子であった。秀吉の命により、中国(明)に渡り、その用法を伝習した。
 この高政の屋敷が大長寺の在った場所(網島)にあった縁で、大長寺に高政の没後、位牌を安置した。
 森高政は後に毛利と改名し、豊後・日田に封ぜられていたが、豊臣家の没後、徳川家康により、禄高を削られ、豊後・佐伯に移封された。江戸時代を通じ、佐伯藩の参勤交代の途次、大坂を通る時には必ず家老を大長寺に遣わし、位牌を拝んだ」とある。藩祖の毛利(森)高政は我国の算盤の始祖として同藩に伝わっていたが、算盤の伝来については諸説あり、これもその1つであろう。

[参考資料] 『大日本地名辞書』 吉田東a著
         『日本の歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社
大長寺山門 大長寺は「川向山普光院」と号し、寺伝によると1605年(慶長10年)鯰江備中守が、外祖父毛利備前守の冥福を祈り、建立したと伝わる。
この話とは別に『寛政重修諸家譜』には、大長寺は近江・鯰江藩城主毛利備前守定春の建立で、彼の死後当寺に葬られたとある。(日本の歴史地名体系)
元はここより南へ約500M、現在は藤田美術館になっている場所(都島区網島町)にあったが、1909年(明治42年)墓とともに現在の場所に移転している。
「小春・治兵衛」の比翼塚(向かって左側)。事件後寺では一万日回向や開帳を行い二人の冥福を祈ってきた。
『摂陽奇観』に1774年(安永3年)の開帳で、二人の遺書が公開され、住職進誉の追善狂歌2首を添え、板行されたとある。
この遺書は寺宝として現存するとのことである。
小春・治兵衛の比翼塚
鯉塚と誰が袖乙吉の墓 「小春・治兵衛」の比翼塚と並んである「鯉塚」(右側)と「誰(た)が袖乙吉の墓」。現地の説明板によると、
「鯉塚」は1668年(寛文8年)地元網島の漁師が、淀川で巴の紋がついた6尺余りの大きな鯉を生捕りしたが、その死骸を当寺に葬り、住職が回向したところ、その夜夢枕に1人の武士が現れ、「自分は元和の合戦で徳川勢と戦い、討ち死にした」と告げたため、哀れを感じた住職が「瀧登鯉山居士」と戒名をつけ明け方まで読経を続けたと伝わる。
「誰が袖乙吉の墓」の乙吉は網島の漁夫で、後に任侠道で名を馳せ、行状有名となリ、浪曲・講談で語り継がれたという。

史跡-036/TTL-215

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