近松門左衛門は日本のシェークスピアとも称され、上方の歌舞伎・浄瑠璃界に不滅の足跡を残した偉大な脚本作者である。
近松門左衛門は1653年(承応2年)越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生するが、その出生地については諸説あり、確定されていない。(因みに出生地として、京都、近江、越前、三河、北越、長州・萩、肥前・唐津、出雲などがあるが、それぞれの出生地を示す文献は、近松の没後数10年を経てからもので、存命中や没後すぐの資料は全く存在しない。)
又、ペンネームの近松についても、若い頃、近江・近松寺(ごんしょうじ)で修行したところからつけたとされているが、唐津・近松寺(きんしょうじ)にも同様の話が伝わり、同寺には近松の遺髪塚もあるなど、生前自分の経歴をあまり明らかにしていなかった事からの混乱と思われる。
本名は杉森信盛、幼名は次郎吉。平安堂、巣林子(そうりんし)などと号した。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。元禄年間を中心として、貞享〜享保と約40年間にわたり活躍し、竹本座の座付作者として竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著した。その内容は義理人情の葛藤を題材にして、人の心の美しさを描いている。1724年(享保9年)に72歳で没した。
代表作に「出世景清」「国姓爺合戦」「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「傾城仏の原」などがある。
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