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所在地:大阪府大東市寺川4丁目
最寄駅:JR学研都市線「野崎」下車、東へ旧170号線を南へ、
「四条小」から3つ目の辻を東に入る突き当たり |
法妙寺(山号は本覚山)は近松寺とも通称し、寺伝によると1562年(永禄5年)の創建と伝わる寺院で、元は大阪城東辺にあったが、大阪夏・冬の陣後の復興整理のため、谷町筋8丁目寺町(現中央区谷町8丁目)に移転させられ、1967年(昭和42年)谷町筋の拡張のため、現在地に移転するまで在った。
お寺の方のお話では、谷町に在った法妙寺は近松門左衛門の妻の実家が檀家だった関係で、近松門左衛門の墓が建てられていた。移転に際して、この墓も移転すれば、国史跡の指定が解除になるので、大阪市の要請もあり移転で出来なかったが、その他の近松の一族の墓や過去帳などは現在地に移転した。過去帳などは非公開であるが、数年前に大学の先生が研究のためにと要請があり、開示したことはあるとのことである。
近松門左衛門の墓は移転できなかったが、谷町にある墓と同じような墓石を建て供養墓としている。
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[参考資料] |
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妙法寺は生駒山の裾野にあり、眼下に住宅地が広がる。山門は随分古く感じられるが、前の住所から移築したものかどうかは聞きもらした。 |
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近松門左衛門の供養墓は谷町8丁目に残されている「本墓」と同じデザインである。
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墓の前には「大阪市教育委員会の碑文」(一番手前)が建てられているが、地元の大東市はこの墓に関しては無関心であるとのことであった。 |
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「近松門左衛門の供養墓」を真ん中にして、左は蜀山人・太田南畝の「平安堂近松翁墓碣(ぼけつ)」。
碑文は蜀山人が1821年(文政4年)に書いた起草文を、当地(谷町?)の中村某氏が所持していたのをもとに「近松200年記念行事」として1923年(大正12年)に建立。
文中に谷町「法妙寺」に墓があることが記されている。
右は大坂城落城(夏の陣・冬の陣)の際、犠牲になった人のための「供養塔」、4面にぎっしりと犠牲者の名前が刻まれている。この供養塔は落城後、時を経ず建てられたとのことで、約380年前のものらしい。 |