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所在地:大阪市中央区谷町8丁目
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ
谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前 |
近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する、。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。
近松は、竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。
「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。
尚、近松門左衛門の墓は兵庫県尼崎市久々地の「広済寺」にもある。
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[参考資料] 『現地解説板』 大阪市教育委員会 |
広済寺ホームページへ |
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ビルとガソリンスタンドの間に挟まれたれた一角に墓地の入り口があった。 |
近松門左衛門の墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年(昭和55年)に整備が図られ、国の指定史跡となっている。 |
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丁度、「関西かぶきを愛する会」の人達と出くわした。この日はこの界隈にある歌舞伎ゆかりの地を巡っているとの事であった。 |
上町筋から谷町筋に抜ける通称「楠木通り」を歩いていると、通りに面し『近松門左衛門墓』の案内板があった。
日本語と英語の対訳で近松についての解説がなされているが、この地点からでは近松の墓には入れない。
この場所では効果半減であり、この解説板が、何故墓の入口のある谷町筋に建てられないのか疑問である。 |
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