|
所在地:
大海神社:大阪市住吉区住吉2丁目
阪堺電軌上町線「住吉」下車、東へ200M
銅座跡:大阪市中央区今橋3丁目 「愛珠幼稚園」前 |
江戸時代後期に狂歌で活躍した大田南畝(蜀山人)は江戸幕府の役人でもあった。1801年(享和元年)52歳のとき、大坂銅座役に出向を命じられ、1年間ほど大坂に赴任していたことがある。
この大坂勤務中、周辺の旧跡を訪ね歩き、上方の文人墨客とも交流し、『葦の若葉』と題した紀行文を出している。
住吉大社は特に気に入ったと見え、6回参拝しているが、そのときのエピソードが歌碑になり、住吉大社の摂社大海神社境内に残っている。
天王寺の医者で、蕪坊と号した狂歌好きの男と、初詣で住吉大社に参拝し、近くの茶店で会うことを約束した。当日、蕪坊は茶店で待つも蜀山人はなかなか現れず、ついに腹を立て、「墨の江の 岸によるから 来る人を まつは久しき ものとこそ知れ」と茶店の柱に書きつけて帰った。後からやってきた蜀山人は「住吉の 待つべきものを 浦波の 立ちかへりしぞ しづ心なし」と同じ柱に書き加えた。
この問答歌を刻んだ歌碑を、大坂の狂歌師たちが、蜀山人の生前の1822年(文政5年)に建てている。
その他、蜀山人の足跡は、芭蕉や蕪村も訪れたといわれる「浮瀬亭」にも訪れている。また、近松門左衛門のために書「平安堂近松翁墓碣」を書いている。 |
狂歌師、戯作者である大田南畝は1749年(寛延2年)江戸城警固を任とする下級武士の子として牛込御徒町(現在の新宿区中野)で生まれた。本姓を大田直次郎、名を覃(ふかし)、後年には七左衛門といい、蜀山人は晩年の号で、南畝、杏園、などの号を称した。また、四方赤良、風流山人、山手馬鹿人などの筆名を使用している。
19歳のとき平賀源内の序文を得て、「寝惚先生文集」という狂詩集を出し、一躍狂詩壇の第一人者となる。「万載狂歌集」、「徳和歌後万載集」、洒落本「変通軽井茶話」などを著し、マルチ文化人として江戸の文壇で活躍した。
松平定信の「寛政の改革」を皮肉った狂歌が彼の作との疑いのため、厳しい取調べを受け、パージされた。それ以降は謹慎のため、一時筆を折っている。大坂赴任はこの期間中のことである。
1823年(文化6年)74歳で没した。
|
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
|
歌碑は風化のため、表面の剥離が起こっており、触れば剥げ落ちる状態になっている
歌碑は柵の外側にあり、近くに寄っ
てじっくりと見ることが出来ない 。 |
蜀山人の歌碑が建つ大海神社の拝殿 |
|
住吉大社の摂社「大海神社」は山幸海幸の神話で有名な豊玉彦命、豊玉姫命 を祀る。
本殿は、住吉大社と同じ「住吉造り」で国の重要文化財に指定されている。
蜀山人の歌碑は本殿の向かって左手にある。
|
蜀山人が勤務していた銅座跡 |
|
|
大阪市中央区今橋3丁目にある蜀山人が勤務していた大坂銅座跡。
1766年(明和3年)に銅集めの役所として設立された。銅座は国内産銅の精錬・売買を独占し、日本の銅産業をコントロールした。大坂には住友銅吹所などの優秀企業が集まり、輸出銅は全てが大坂で精錬された。
この場所は緒方洪庵の「適塾」の裏手に当たるところにある
。 |