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史 跡
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赤穂義士の墓所へ



大石内蔵助の墓 寺坂吉衛門の墓
所在地:大阪市住吉区住吉2丁目 「一運寺」境内
最寄駅:阪堺電軌「住吉」下車東へ、「大海神社」の斜め前
住吉大社の摂社・大海神社の東側に隣接する一運寺(浄土宗) に大石内蔵助・主税父子と寺坂吉右衛門の墓がある。
 リーダの大石内蔵助良雄(よしたか)は、代々家老職を務める家柄で、1500石の扶持を得ていた。討ち入りの主役であり、映画やテレビでは、恰幅のよい役者がそれを演ずるが、事実は痩せっぽちの小男であったらしい。
 良雄は8歳の頃、朱子学の観念論化を批判して幕府からにらまれ、赤穂に配流された兵学者山鹿素行から、その教えを受け、また、16〜7歳頃には、京で伊藤仁斎の堀川塾に学び、武芸は東軍流の剣豪奥村無我より剣術免許皆伝を授かっている。太平の世で、事件が起きなければ、平々凡々の一生を過ごしたと思われるが、事件発生後は城明け渡しから、討ち入りまでまで、性格や意見も違う同志を統率し、目的達成を果たしたリーダーシップ振りには感嘆させられる。45歳で切腹。

 内蔵助の長男である主税良金(よしかね)は 部屋住であったため、当初内蔵助は義盟に加えるつもりは無かったが、父と行動を共にしたいという本人の意志が強かったため、元服をさせ、名前も幼名の松之丞から主税と改めた。同志の中では最年少で、切腹したときは僅か16歳であった。

 寺坂吉右衛門信行は討ち入り同士の中で、唯一を免れた義士であるがその経緯には諸説あるようだ。身分は同志の1人吉田忠左衛門の足軽で、討ち入り本懐を遂げた後、泉岳寺に向かう途中、寺には入らず立ち去っている。「逃亡説」を始め、大石内蔵助の意を受けた「生証人説」等々、義士研究家の間では論議が盛んであるが、吉右衛門自身は広島浅野本家に報告後、忠左衛門の娘婿である、姫路藩士伊藤十郎太夫宅に身を寄せ、伊藤十郎太夫の転封にも、越後−三河刈谷−下総古賀とつき従い、忠実に働いている。後、旗本山内主膳家にも仕え、83歳で没している。(討ち入り当時は39歳であった)

[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社
一運寺-1 一運寺の山門の前には『赤穂義士之墓』の石碑が建つ。
赤穂義士の墓は、元は、明治の初め廃寺になった住吉の龍海寺にあり、その寺には47士全員の墓があったが散逸し、当寺の住職が残った墓を引き取ったのが、この墓だとのこと。


一運寺-3
 一運寺は金龍山と号
 し、寺院に伝わる由緒
 書によれば開基は
 聖徳太子により創建さ
 れたと伝わる。
 写真は一運寺本堂
大石父子と寺坂吉右衛門の3基の墓がある。
中央の墓が大石内蔵助の墓で、中央に「忠誠院刃空浄剣居士」の戒名が刻まれている。右側は大石主税の墓「刃上樹剣信士」、左側は寺坂吉右衛門の墓でこれは戒名でなく、名前が記されている。
大石父子の墓には命日「元禄十六年癸未二月四日」と行年が併せ記されているが、吉右衛門のそれにはない。
大石内蔵助の墓
一運寺-2 山門から少し離れたところに立つ石碑。
『(右側)日本諸宗祖師御旧跡、
 (中央)仏法最初聖徳太子御建立之地、
 (左側)元祖圓光大師御旧跡』の文字が刻まれている。

(仏法の法の字は石碑ではサンズイ偏に大の下にムの字が書かれている)
この碑文にあるように、伝教大師慈覚大師弘法大師圓光大師(法然上人)等が住吉大社に参籠の際、当寺に立ち寄っている。

史跡-075/TTL-309

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