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所在地:東大阪市菱谷西6丁目 宝樹寺
最寄駅:近鉄奈良線「小阪」下車、線路に沿って西へ、長瀬川の
手前の道を北へ約500M |
紀海音は近松門左衛門と人気を二分した浄瑠璃作家であった。姓は榎並、通称喜右衛門、のちに善八といった。1663年(寛文3年)大坂御堂前雛屋町の禁裏御用の菓子屋鯛屋善右衛門の次男として生まれた。
父は連歌・俳諧をたしなみ、松永貞徳に学び貞因と号し、兄は浪華狂歌の大御所永田貞柳、弟も花実庵貞斎の筆名を持つ文筆一家であった。
海音は若くして出家し、1700年(元禄13年)父の死と共に還俗し、医学を身につけ生計を立て、また契沖に入門して国学や和歌を学び、兄貞柳にも師事し狂歌を教わっている。
その後、戯曲を書くようになり、豊竹座の座付作家に招かれ、1723年(享保8年)に引退するまで、約50編の作品を残した。代表作は「椀久末松山」「傾城三度笠」「お染久松袂の白絞」「八百屋お七」「鎌倉三代記」「心中二つ腹帯」などがある。
大坂の浄瑠璃が大発展したのは、竹本座と豊竹座がライバルとして、拮抗したことが大きいといわれ、中でも1722年(享保7年)に大坂生玉で起きた、半兵衛とお千代夫婦の心中事件を扱った「心中二つ腹帯」は、近松門左衛門の「心中宵庚申」競作となり、竹本座か豊竹座かと世の中を大いに沸かせた。
引退後は、家業の再興に腐心し、1742年(寛保2年)79歳で没した。上本町にあった宝樹寺に葬られらたが、同寺は現在は墓と共に東大阪市に移転している。
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[参考資料] 『現地解説板』 東大阪市
『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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園林山宝樹寺は元は大阪・上本町にあったお寺で、1927年(昭和2年)道路拡張により、墓と共に、現在地に越してきた。
山門の傍に建っている「解説板」には『棟札から1699年(元禄12年)の建立が確認できる』と記されているが、本堂は近年立て替えられおり、木の香が漂うようである。 |
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墓は菅沼奇渕と並んで建てられている。手前が紀海音の墓。 |
墓は砂岩のためか風化が進み、一部破損している。合同墓で、正面には海音の法名「清潮院海音日法」と妻の法名「月慶院妙隆日幸」と「享保十五庚戌九月三日」(1730年)の日付があり、海音の生前に建てられた墓らしい。墓は東大阪市の史跡・文化財に指定されている。 |