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所在地:東大阪市菱谷西6丁目 宝樹寺
最寄駅:近鉄奈良線「小阪」下車、線路に沿って西へ、長瀬川の
手前の道を北へ約500M |
菅沼奇渕は江戸時代後期の俳人で、1763年(宝暦13年)堺の生まれ。別号に奇中、七杉堂、大黒庵、茅渟(ちぬ)翁、桃亭、花屋庵など。
青年時代大坂に出て、不二庵二柳に師事した。師の二柳は20代で諸国放浪の旅に出て蕉門と交流があり、51歳で大坂に居を構え、以後30年にわたり 芭蕉の顕彰と蕉風の発展に生きた人であるが、奇渕も二柳の後を引き継ぎ、終生芭蕉の顕彰に努めた。
芭蕉の終焉地である、大坂・南御堂前の花屋仁左衛門宅は1807年(文化4年)の火災で焼失したが、その2年後、奇渕はこの跡地にささやかな翁堂と中2階造りの「花屋庵」と称する家屋を建てて移り住み、花市会、松風会、枯野会等の芭蕉祭祀行事を創始し、大坂蕉門俳諧の拡大に努めた。
門人は3000人とも称されるほど名声も広がり、法眼の位に叙せられ、1834年(天保5年)5月71歳で没した。著書に『西国七部集』『芭蕉袖草子』『俳諧季寄大全』などがある。
尚、茅渟奇渕名で建てた芭蕉の句碑が、大阪・星光学園内に残っている。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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園林山宝樹寺は元は大阪・上本町にあったお寺で、1927年(昭和2年)道路拡張により、墓と共に、現在地に越してきた。
山門の傍には「文化財 紀海音、法眼 菅奇渕之墓所」の石碑と「東大阪歴史の道 解説板」が建てられている。 |
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墓は紀海音と並んで建てられている。手前が菅沼奇渕の墓。 |
墓の文字は鮮明で、正面には「法眼菅奇渕之墓」とあり、背面に没年の「天保五年甲午五月十八日」、左側面には「麗庵社建立、右側面に「門人鼎左謹書」と刻まれている。 |