|
所在地:大阪市天王寺区夕陽丘町 梅旧院
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、谷町筋「太平寺」の手前を西へ、口縄坂手前右手 |
不二庵二柳(ふじあんじりゅう)は生涯松尾芭蕉の顕彰一筋に尽くした俳人として名を残している。
1722年(享保7年)加賀・山中に生まれる。姓は勝見、名は充茂。俳諧を久米之助(桃妖)に師事した。
師より、桃左の号を与えられる。この俳号は桃青(芭蕉の旧号)−桃妖(芭蕉から与えられた俳号)−桃左と続く蕉風の正統派を受け継ぐ俳号ともいえる。
20代の後半から諸国へ放浪の旅に出、東は尾張、西は備前・備後、四国の阿波に及び、各地の蕉門と交流。各地で滞在中『細根山の記』『壬生山行』などを刊行、蕉門の有力俳人として次第に頭角を現した。
51歳で大坂に居を構え、以後30年にわたり芭蕉の顕彰と蕉風の発展に生きた。その生活は清貧そのものだったが、謙虚で暖かい人柄と芭蕉を慕う情熱は、多くの人達の共鳴と感動を集めた。1803年(享和3年)3月79歳で没し、天王寺・梅旧院に葬られた。
尚、二柳はこの梅旧院の近く、口縄阪を下った下寺町にある円成院に志太野坡が建てた「芭蕉の墓」や「句碑」を修復したほか、星光学園内の浮瀬亭跡にある門人の菅沼奇渕の建てた「芭蕉の句碑」の背面に賛を書いている(この賛のなかで二柳は自分のことを「芭蕉3世劣孫」と記し、心意気を示している)。
|
[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
|
宝光山梅旧院は曹洞宗の寺院で、芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧院の住職がお経を読んだと『花屋日記』にあるそうで、芭蕉と梅旧院との関わりがあったところから、不二庵二柳も寺院との縁が出来たと思われる。 |
|
|
二柳の一周忌に長男で俳人の桃処が建てた「不二庵の碣」。碑文には「俳諧作主 不譲芭蕉門徒数千 蕨猷孔昭」と彫られ、背面には経歴が記されている。「文化甲子春三月」(1804年)建立。 |
二柳の墓は、自らが建てた芭蕉の墓(向かって左側)と並んで建てられている。
|
|
境内にある「芭蕉堂」。
中には「芭蕉像」が安置されているが、この像は、元は
円成院に志太野坡が芭蕉の墓や句碑を建てた折、
芭蕉の木像を寄贈したが、この木像が粗末に扱われた
ため、これを知った二柳が怒り、芭蕉像を引き取り、ここ梅旧院に芭蕉堂を建て、安置したと伝わる。
軒下に1975年(昭和50年)3月に行われた「芭蕉堂修復記念」の連句が挙げられている。 |