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松尾芭蕉の史跡へ
志太野坡の墓 所在地:
宝国寺:大阪市天王寺区餌差町  宝国寺
四天王寺:大阪市天王寺区四天王寺町 四天王寺
志太野坡は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の「蕉門十哲」の1人。1663年(寛文3年)越前・福井に生まれた。幼名を武田庄一郎、通称を弥助、半次郎といった。若い頃から江戸に出て、両替商三井越後屋に奉公、番頭まで勤めた。
 野坡がいつ頃から芭蕉に師事したかははっきりしないが、1687年(貞享4年)刊の其角撰『読虚栗』にその名(野馬)が見える。頭角を現すのは1694年(元禄7年)32歳のとき、『炭俵』の編集に参加し、大好評を得た。芭蕉の死後、職業的俳諧師として立つため、1694年(1704年)来阪。現在の中央区農人橋の近くに居を構え、俳諧に専心した。1724年(享保9年)大火に遭い、無一文になり、高津に庵を結び、以後、生涯をここで過ごした。「軽み」の俳風では蕉門随一の人。その門人は、西国・四国・中国に及び、その数は1000人を越えたといわれる。
 野坡は、大坂を本拠地とし、経済的不遇の中にあっても、生涯、芭蕉の顕彰と蕉風の発展と門人の育成に尽くした功績が大きく、後世に名を残した。1740年(元文5年)77歳で没した。
  なお、1997年(平成9年)大阪の古書店で出現した『おくの細道』真蹟本は、野坡が手元におき、江戸中期より行方が分からなかった、『野坡本』といわれるものである。
[参考資料] 『安養山 宝国寺』 宝国寺パンフレット

宝国寺に建つ野坡の墓 志太野坡の墓-1
宝国寺山門
宝国寺は浄土宗の寺院で、1586年(天正14年)の創建。1945年(昭和20年)の空襲で灰燼に帰すも、本尊の阿弥陀如来は、焼失を免れ現存する。 宝国寺の墓地にある野坡の墓。
正面の文字『蕉門第二世高津野翁 浅生庵寿元居士』は、風化のため、判読困難であるが、右側面(写真)の『元文五庚申星正月三日 行年七十八歳卒』と左側面の『孝子武田氏 嫡政女 門人等建立』の文字は比較的はっきりと読み取れる。

四天王寺に建つ野坡の墓
野波の墓(左)、芭蕉の墓「右) 四天王寺元三大師堂
四天王寺の墓地に「松尾芭蕉の墓」(右側)と並んで野坡の墓がある。これらの墓は野坡の門人で後継者でもある湖白亭浮雲が1761年(宝暦11年)に野坡の20回忌に建てたものである。 墓地の中心にある「元三大師堂」を正面に臨むところに墓はある。
湖白亭浮雲:本名は有井氏、筑前直方藩の武士。
野坡の門に入ってから、蕉門に傾倒し、武士を捨て、来阪。医業で生計を立てながら野坡門をついだ。

文化墓-013/TTL-181

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