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史 跡
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近松ゆかりの地へ



梅川・忠兵衛縁の地へ
梅川・忠兵衛の供養墓 所在地:
伝光寺跡:大阪市天王寺区城南寺町
最寄駅:近鉄奈良線「上本町」下車、上町筋を北へ、上本町5丁目信号を東入る、東高津公園の斜め向かい角にあり
善福寺:奈良県橿原市新口町
最寄駅:近鉄橿原線「新ノ口」下車、北西へ約300m
大和・新口村の小百姓四兵衛の息子・清八が大坂淡路町にあった飛脚屋に養子に出て、亀屋忠兵衛と名乗っていたが、1709年(宝永6年)新町・槌屋の遊女梅川に通い詰め、店の金を使い込んでいた。
 おまけに梅川を身請けするため、店に届けられていた300両の公金まで、手につけてしまい、2人は忠兵衛の生まれ故郷の大和・新口村まで逃亡し、実家近くの大和・上里村(現・香芝市)の親類宅に潜んでいるところを御用となり、刑場の露と消えた(一説には牢死したともいわれる)。
 この話を近松門左衛門が1711年(正徳元年)浄瑠璃の「冥土の飛脚」としてに脚色し、名作となった。その後、紀海音が歌舞伎の「恋飛脚大和往来」に脚色している。

天王寺区城南寺町伝光寺跡に建つ供養墓
梅川・忠兵衛の供養塚-1 梅忠ノ碑  
大阪市天王寺区城南寺町の一角、せいぜい20平米足らずの空き地に、「梅川・忠兵衛の墓」がある。
これらの墓は安政年間(1854〜60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とある。どちらの墓もかなり痛んでいる。 
墓の横に建っている「梅忠ノ碑」。
墓は四つ角の角地にあるが、周り建屋の筋違いなどの影に隠れ、見落としてしまう。

「梅川・忠兵衛の墓」は戦前までは「伝光寺」というお寺があったが、1945年(昭和20年)3月の空襲で全焼した。
その後、1952年(昭和27年)にこの伝光寺と起善寺、本覚寺の3寺が合併し、顕祥寺として同じ城南寺町内に創建されている。

お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。
福田金塘は江戸時代の後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。
1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。
梅川・忠兵衛の供養塚-2

奈良県橿原市善福寺に建つ供養墓
新口町善福寺墓
奈良県橿原市新口町・善福寺本堂の前にある忠兵衛の供養墓。
旧新口村は忠兵衛の実家があったところで、近松の「冥途の飛脚」では「新口村の段」として登場する。
墓は「南無阿弥陀仏」と刻まれ、追善のため後世に建てられた物らしい



新口町善福寺墓-2 
 善福寺は集落の中にあり、
 この山門をくぐったところ、正
 面に忠兵衛の墓がある 。

史跡-026/TTL-167

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