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史 跡
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[更新記録]
・06/3/12
精華町に伝わる話を追加
お千代・半兵衛の墓へ
近松ゆかりの地へ
お千代・半兵衛供養墓 所在地:京都府相楽郡精華町南六ノ坪 「来迎寺」
最寄駅:JR学研都市線「祝園」下車、線路沿いに南へ約200m、西に入る(「案内板」あり)。
近松門左衛門の最晩年の世話物である「心中宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)は1721年(享保7年)に大坂で実際に起きた心中事件を題材にしたものだが、この物語の一方の主人公であるお千代は山城国相楽郡植田村(現京都府相楽郡精華町植田)の大庄屋島田平左衛門の二女であったと伝わる。父平左衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、菩提寺である来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。この墓は保存状態もよく、来迎寺に現存する。
  この来迎寺がある植田村は木津川の西岸に位置し、村内を南北に奈良街道(俗に言う歌姫越え)が通り、古くから京都と南都(奈良)を結ぶ街道筋に開かれた集落である。
  精華町立図書館で見た『精華町の郷土史』には一般に流布されている心中とは経緯が異なる話が、お千代の出身地には伝わっており、掲載されていた。これによると、
 『植田村豪農島田平左衛門の娘千代は10歳の時、行儀見習いのため大坂難波の蔵屋敷に出仕、芸州藩士の川崎氏の小間使いとなった。当主に気に入られた千代は18歳の時、同家の養子半兵衛の嫁となっている。この川崎氏は、災禍続きで零落の様相であった。
 事件の起きた経過は、千代の郷里より父が病気になったとの便りがあり、看病のため暇を得て実家に帰ってくると父は病気でなく、同村の富豪の金蔵なる人の息子の嫁にするための方策だった。
父は千代を手元に置こうと思い、半兵衛との縁を切り、金蔵家の嫁となるように勧めた。金蔵よりも執拗な懇請は脅迫となり、思い余った千代は半兵衛に手紙を送り、それには現在の経緯と共に、「父に従えば君を捨てることになり、進退窮まり、一死を持って君に報わんと思う」としたためられてあった。
半兵衛は驚いて植田村に駆けつけ、父に「三行半」を手渡したが、別室で悲鳴が聞こえ、その場に駆けつけて見ると千代は短刀を咽喉に突き刺し自害していた。半兵衛は千代の咽喉元から短刀を抜き取り、我が咽喉を引き裂いて自害したという。千代の父は2人を来迎寺に葬り、碑を建て弔ったと伝わる。』とある。
この話が事実ならこちら墓が本墓と言うことになり、大坂・銀山寺に建てられた墓と主客が逆転することになる。

[参考資料] 『現地解説板』 来迎寺護持会
         『精華町の郷土史(その1)』 精華町の自然と歴史を学ぶ会編
来迎寺(京都府相楽郡) 引接山来迎寺は750年頃(天平勝宝時代)行基菩薩が山城国の布施屋として創建したとの歴史を伝える。
以前の本堂、山門、鐘楼などの建物は江戸時代の中頃(文化・文政時代)に再建されたものであったが、老朽化のため、1996年(平成8年)に全て建て直されている。
お千代・半兵衛の墓は2基建てられている。
現地の説明板によると、手前の堂内にある墓石(下の写真の左側)は享保時代のもので、その後ろ側に建てられているのは墓(下の写真の右側)は1857年(安政4年)に建立されたとのことである。
享保年間に建てられた墓(下の写真左側)は角が取れ丸くなっている。後の世で、お守りとして削り、持ち去る人が多くあったためらしい。
お千代・半兵衛の墓-1
お千代・半兵衛の墓-2 お千代・半兵衛の墓-3
享保年間に建てられた墓と塔婆(左の写真)と安政4年に建てられた墓石(右の写真)に書かれている夫婦と身籠っていた子供の戒名は、大阪・生玉寺町にある銀山寺の墓石に彫られている戒名(声応貞現信女/離身童子/通月融心信士/)と同じものである。

史跡-109/TTL-430

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