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史 跡
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[更新情報]
・08/9/28 
丸山古墳の項で地名の読み方
修正
野見宿禰の墓 所在地:
太秦高塚古墳:寝屋川市太秦高塚町
丸山古墳: 京都府相楽郡精華町
私が現在の町に移り住んで2年近くになるが、この地域のことを良く知ろうと思い、町の図書館で、町の歴史や地理に関する書籍を見ていたところ、町役場の前にある「丸山古墳」が「野見宿禰の墓」の伝承があるとの記載があった。
 この記事を見ていて、「野見宿禰の墓」と伝わる古墳が寝屋川市太秦にもあるのを思い出した。
御勝山のページでも述べたが私が高校生の頃、夏休みの宿題で自由研究のテーマとして大阪府下の古墳を訪ね歩いたことがあり、このとき寝屋川市にある「野見宿禰の墓」を訪れている。
 当時の古墳は雑木林で覆われており、立入禁止とはなっていなかったものの、中に入るのもためらわれたが、丘の頂上まで上がってみたのを記憶している。
そのとき、近くの畑で作業していた人に伺った話では、あの双葉山が横綱昇進の折に、この古墳に来たことがあるとのことで、当時は「野見宿禰の墓」として広く信じられていたものと思われる。
 今回、約半世紀振りにこの寝屋川市にある古墳を訪れたが、古墳はきれいに整備されており、古墳の変貌もさることながら付近の風景もすっかり変わってしまっていた。
かっては秦、太秦の丘陵上には古墳が点在していたが、開発の波に呑まれて姿を消し、この古墳だけが整備・保存されており、時代の流れを感じずにはおれなかった。
 現地の解説板で古墳の正式な名前は「太秦高塚古墳」と言うことを初めて知ったが、野見宿禰の墓の伝承があったことには全く触れられておらず、人々の記憶からは消えて行く運命にあるようだ。
 なお、「野見宿禰の墓」は上記以外に高槻市にある上宮天満宮の境内社の「 野身神社」が鎮座する古墳も「野見宿禰の墓」と伝えており、全国的も同じような箇所が何カ所もあると思われるが、野見宿禰そのものが伝説上の人物であり、何れの古墳も伝承の域を出ないのは当然と言えば当然であろう。
 しかし、これらの墓がいずれも根拠がないとして片付けて仕舞うのは、古代へのロマンが失われて行くような気がするのは私だけだろうか。

[参考資料] 『現地説明板』
太秦高塚古墳 [古墳の規模]
直径:  39m、 高さ:  7m
円丘部の直径:37m、古墳の周りには幅約7.5m
深さ約2mの豪が確認された。
この古墳は5世紀後半に築かれた2段式の古墳で、2001年(平成13年)の発掘調査では1段目の平坦部(テラス)に円筒の埴輪が並べられていたとのことである。(上記写真の古墳の周りの赤い部分はこれを再現している)
古墳の頂上部の南側よりよろい、やじり、鉄斧、鐙などの副葬品が出土している。
頂上の平面部分の石は、発掘された主体部の位置を表している。
古墳の頂上から隣接する豊野浄水場を望む。
この浄水場は昭和40年代に出来たもので、勿論前回来たときには無かった。


丸山古墳 [古墳の規模]
直径: 100m、高さ: 12m
この古墳は前長250m、墳丘長174mの前方後円墳だったとする説もある。前方の部分は現在では幼稚園や商工会議所になっている。
精華町役場から見た丸山古墳。
この古墳が野見宿禰の墓との伝承が生まれた根拠は不明であるが、隣町の木津町(現木津川市)に「吐師(はぜ)」と言う地名があり野見宿禰の流れを汲む土師氏の居留地だとの説がある。その辺りからこの伝承が生じたものと思われるが、取って引っ付けた感がしないでもない。
古墳の中腹に建つ「伝 野見宿禰塚」の碑。
宿禰の禰の字が称の旧字体で誤って彫られている。

この石碑は三宅安兵衛という京都で帯問屋を営んでいた人の遺訓により建てられており、京都府下におよそ400基以上の道標や石碑が建てられていると言う。

史跡-147/TTL-594

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