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史 跡
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百済王神社へ
百済寺跡 所在地:枚方市西之町1丁目
最寄駅:京阪電車交野線「宮之阪」下車、東へ約500m
百済王神社に隣接する百済寺跡は、東大寺大仏建立に際し、749年(天平21年)百済王敬福は陸奥国産出の金を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられ、以後百済王氏一族はこの中宮の地に移り住み、 氏寺として建立した百済寺跡で、寺院は11~12世紀に焼失したものと考えられるが、礎石だけはそのまま残っており、敷地全体が国の特別史跡に指定されている。大阪府下で特別史跡に指定されているのはこの百済寺跡と大阪城の2箇所のみである。
 百済寺は奈良時代末期から建てはじめられ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられており、その伽藍配置は、奈良の薬師寺のように金堂の前に東西の2つに塔を持つのが大きな特徴で、新羅の感恩寺との類似が指摘されている。
 百済王神社に伝わる『由緒』よれば、「百済王南典の死去に際して聖武天皇の勅により、河内交野郡中宮の地に、百済王祠朝・百済仏刹を建立、百済王の例を祀らせた。僧房28宇、末院18、寺社36人がこれに属し、宣教大師を開基とす」とあり、壮大な寺院であったことが窺われる。
 1932年(昭和7年)に発掘調査が始まり、以後1965年(昭和40年)、2005年(平成17年)と3回の調査が行われており、05年よりの調査は現在も進行中である。今回の調査は40年ぶりの調査で、今後10年を掛けて、再整備を行うための発掘調査とのことである。
 今回の発掘調査では、05年には西塔と西回廊の調査が行われ、西塔基壇の周囲に延石が整然と並び、当時の最上級工法とされる「壇上積(だんじょうづみ)基壇」であったことが判明、07年には大型多尊塼仏(せんぶつ)が出土、また北西端の築地塀跡が出土し、寺域が約140m四方と確定されるなど、新たな発見も多く見られる。

[参考資料] 『現地説明板』 文化庁、大阪府教育委員会
         『由緒』&『特別史跡 百済寺跡だより』 百済寺神社
旧東門跡に建つ「百済寺跡」の石碑。 金堂跡。
講堂跡。 東塔跡。
南大門跡。 西回廊跡。
09年3月現在発掘中の北東部の地域。この地域から鋳型を設置する1辺約2.5mの土坑が見つかり、寺の造営や修理を担った工房「修理院(すりいん)」の跡と見られる。付近から鉄や青銅器のほか、これらを鋳造する際に使用されていたとみられる溶解炉の破片が約300点が出土し、同寺で使われた鉄器や青銅器がここで鋳造されていたことが判明した。

史跡-162/TTL-676

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