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所在地:大阪市中央区大阪城
最寄駅:
玉造口:JR環状線「森之宮」下車
京橋口:地下鉄谷町線、京阪本線「天満橋」下車 |
大阪城といえば豊臣秀吉の名前が反射的に出てくるが、現在に残る大阪城の遺構は徳川時代に再建されたもので、秀吉が築いた大坂城は地中に埋もれている。天守閣は1931年(昭和6年)に御大典記念事業のひとつとして広く府民より寄付を募り再建され、併せて大阪城公園として整備された。西の丸庭園や梅林などは大阪府民にとっても憩いの場でもあり、1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定されている。
近年では大阪マラソンのコースとしても、京橋口や玉造口の名はやテレビの中継で馴染みがあるが、ここでは、天守閣や巨大石蛸石などの観光定番コースから外れ、玉造口→蓮如上人袈裟懸の松→豊国神社→天守閣→京橋口のコースで大阪城内を歩いてみた。
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[参考資料] 『現地説明碑』 |
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鉄筋コンクリート製外観5層8階建ての天守閣。
1995〜97年(平成7〜9年)に平成の大改修が行われた。
かっては大阪市内のどこからでも天守閣が見え、大阪のシンボル的存在だったが、現在では大きなビルに遮られ、大阪城が見えないところが増えている。 |
おなじみの城内No1巨石の蛸石。およそ36畳(約60u)、重さ約130トンと推定。備前岡山産の花崗岩である。
施工担当大名は岡山藩主 池田忠雄。
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「城中焼亡埋骨墳」の碑。
裏側には「慶応四辰歳七月 薩州 長州建之」とあり、
大阪城内での焼亡者の遺霊と遺骨を祀るため、薩摩と長州の両藩が合同で建立したらしい。
中央大通りから玉造口に向かう自動車専用入り口の植え込みの中に、建てられている。
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天守閣の石垣のところに置かれてあった残念石。
中央石碑の両側にある石は1620年(元和6年)から始まった大坂城修復の際、小豆島で用材石として切り出されたが、結果的には利用されずに現地に数多く残されており、「残念石」と呼ばれている。
右側の大きい石は筑前黒田長政の石切り場で見つかり、左側の小さい石は豊前細川忠興の手になるものとのことである。
これらの石は1981年(昭和56年)小豆島青年会議所と大阪青年会議所が合同事業として、小豆島よりこの地に運び据えた。
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『豊臣秀頼、淀殿ら自刃の地』の碑。
1615年(慶長15年)5月8日、秀頼とその母淀殿を始めとする主従約30名は落城直後の大阪城内で自刃した。自刃の場所については諸説あり、この碑が建てられているここ山里曲輪(くるわ)の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。 |
大阪城刻印石広場。
上記『豊臣秀頼、淀殿ら自刃の地』の碑が建つ向かい側にあり、この広場は1983年(昭和58年)大坂築城400年を記念してつくられた。
ここに並べられている刻印石は元和・寛永年間(1620〜29年)に徳川幕府より大坂城石垣築城に参加を命じられた西日本の諸大名が集めた石を石組みの過程でに文字、文様、家紋などを石垣に刻印しており、現在までに数万個見つかっており、そのうちの一部が展示されている。 |
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京橋口の近くに置かれてあった狛犬。
この狛犬の制作年代は不明で、現地の説明板には『古い時代のもので中国の文化遺産』としか書かれていなかったが、戦前中国に断りもなしに無断で運んで来たものらしい。
1984年(昭和59年)に改めて中国政府より、友誼を深めるため、大阪市に寄贈された。 |