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所在地:大阪市中央区大阪城
最寄駅:JR環状線「森之宮」下車、玉造口より梅林に向かう途中にあり |
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大阪城の地はそれ以前は石山本願寺があったところで、1496年(明応5年)本願寺第8代蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が史料上に現われるのは明応7年11月21日付の蓮如の「御文」とされてる。
1532年(天文元年)山城本願寺が焼失に伴い本願寺がこの地に移され、1570年(元亀元年)から11年間及ぶ、織田信長との石山合戦の後、1580年(天正8年)本願寺第11代顕如が大坂を退出するまでは本願寺教団の中心となり、最盛期には6町2千軒に及ぶ町屋が建ち並んでいたという。
しかし、現在に至るもこの石山本願寺はどこにあったのかは特定できていないが、この大阪城公園にあったにことには間違いないと言われており、ここ 蓮如上人袈裟懸の松の場所もその候補の1つと言われる。
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[参考資料] 『現地説明板』 本願寺津村別院誌(抜粋)、大阪市教育委員会 |
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残念ながら蓮如上人の袈裟懸松は枯れており、根っこの部分が一部残っているのみである。(上の写真)
袈裟懸の松の伝説がどのような経過で生れたのか、
また、何時の時代に枯れてしまったのかは、説明板には書かれていなかった。
傍らに新しい松が植えられていたが、これが見事な枝振りになるにはかなりの年月を要すると思われる。(右の写真) |
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蓮如上人の筆跡の「六字名号の碑」。 |
蓮如上人顕彰碑。 |
石山本願寺推定地 |
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大手門から大阪城天守閣へ向かう道すがら、修道館の西側に「石山本願寺推定地」の石碑が建てられている。
石山合戦後の豊臣秀吉の大坂城建設や大坂夏の陣後の徳川氏による大坂城建設による大規模な土木工事により、元の地形が大きく改造されたとされており、石山願寺の正確な位置や伽藍後についてはいまだ確認されていないが、大阪市教育委員会では、この地を推定地の1つとしている。
右の写真は石碑の傍らに置かれていた曰くがありそうな巨石だが、これは井戸の石枠で、石枠はこの井戸の本来のものでなく、大手口にある井戸が本願寺以来のものと伝えられ、蓮如井とも呼ばれていたが、その井戸枠がここに移されたもの。 |