沿革・歴史

高野(市左衛門)家の概要

高野(市左衛門)家の沿革

 高野(市左衛門)家は、当家の祖が書き残した覚書(天正5年(1577年)元旦の書)によれば、 名は、高 左衛門 市助(こう (の) さえもん いちすけ)といい、天文19年6月(1550年)に武蔵国 旙羅郡 下奈良庄(現在の埼玉県熊谷市下奈良)から、 この地に來住し、上杉謙信公の許を得て、以降高野姓を名乗りました。 如何なる理由でこの地に來住したか、何故 高(こう)姓を 高野(たかの)姓としたか理由は定かでありません。 その後については、いくつかの伝承は残されておりますが、さしたる記録はなく、 江戸中期からは出羽上山藩の庇護のもと家運盛んとなりましたが、幕末の動乱時には衰退し、殆ど絶家状態となりました。
 故 尭一から五代前の市十郎が再興し、來住以来約460年を経て現在に至っております。 又 昭和50年代に北陸自動車道の建設に伴い母屋脇の蔵屋敷と菖蒲園に接する田地、屋敷前、裏の山林は道路敷となり景観は変貌しました。 菩提寺は、昭和の始めまで上越市高田の浄興寺でしたが、現在は刈羽 北野 光徳寺です。

庭園

市左衛門邸正面の様子

高野(市左衛門)家住宅の構造

 住宅の構造は、正面11.5間 奥行き5間半、木造平屋建一部2階(昭和30年代までは3間×2.5間2階建の中門が付いておりました。)四方せいがい造り茅葺(現在は屋根全体をトタン板で覆っています。)で、軒の出を深くとり、軒高も高く雪国特有の構造です。
 建物の中心部は差し鴨居造りで、最大1尺の柱が使用されております。又、梁は二重梁で簾天井が張られております。全体として極めて堅牢な構造となっております。

市左衛門

煙出しから太陽光が差し込む

囲炉裏



   慶応四年(明治元年)に公示されたキリシタン禁制の高札

        高札

 間取りは東側に仏間、座敷、茶の間(中の間)よろばた(囲炉裏傍、居間)、庭(作業場、土間)馬屋(厩舎)等と続き、 西側に奥の間、上の寝間(下の寝間は中門にありました。)、小間、膳部(食事の場所)、台所(流し場は下屋にありました。)味噌樽等の置き場があり、2階は全て物置で、長持ち、箪笥、膳椀什器類と、焚き物置き場、藁置き場に分かれております。正面及び背面には下屋で、上の便所、下の便所、湯殿(風呂場)等が廊下で結ばれております。
 建築年代は、幕末・明治維新の頃(長岡市固定資産税台帳によれば明治元年)で約150年を経過しております。 近年、中越大震災、中越沖地震と二度にわたり罹災しましたが、壁の上塗りの一部が剥落した程度で免れました。

 高野(市左衛門)家は江戸時代には、旧長岡街道(脇街道)に面しており、正面に高札場がありました。
 慶応四年(明治元年)に公示された高札が現存して残っています。(左写真)
 定
  一 きりしたん宗門の儀は是迄御制禁のとおり固くあいまもるべきこと
  一 邪宗門の儀は固く禁止の事
慶応四年
太政官