「生ビール=わんこそば」説

 かつて、人気作家の清水某なる人物が、次のような趣旨のことをエッセイで書いていた。

 「ビールというのはキーンと音がするほど冷えているやつを飲むのが一番うまいのだ」

 「泡の量とか、注ぎ足してはいけないとか、グラスとかごちゃごちゃこだわる必要もない」

 「気温38度、湿度5パーセントの場所を4時間も歩いて、そこでキンキンに冷えたビールを一気に飲干すのが世界で一番うまいビールである」

 

 同じような認識を持っている日本人は多いことと思う(かつては私も、そのようなジョッキまでフリーザーで冷やしてキンキンになったビールを有り難がっていた時代はあった。まだ青かった!)。

 だが、そんなにも旨いはずのキンキンビールが、2杯目、3杯目になると、だんだん様子が違ってくる。

 一気に喉の奥へ流し込んだのは最初の一杯だけで、それ以降は徐々にペースダウンする。

 ビアホールや飲み屋に行くと、持て余し気味の大ジョッキのビールというものをしばしば見かける。たまに口をつける程度であまり進まない。そしてそういう人は、たいてい次はビール以外の酒にいく事となる。

 

 何故持て余すのか? 何故他の酒にいくのか? それはもちろんそのビールが美味しくないからである。

 キンキン冷え冷えビールの美味しさとは、ノドが乾いたときに冷たいものを流し込むウマさであって、ビールの味は二の次三の次であることは、前述の某作家の言葉が如実に物語っている。

 つまり喉の渇きが癒えてしまえば、とても続けて何杯も飲めたシロモノではないということだ。

 

 なぜこんなことになっているのか?

 これには供する側の問題と飲む側の問題との二つがある。

 まず飲む側の問題。

 

 盛岡名物の「わんこそば」ってありますよね。小さいお椀で次から次へと供されるそば。あれってけっこうウマいもんで、普段だったらそばをどんぶりに2杯も3杯も食べられないような人でも、平気でその倍くらいの量を食べてしまう。

 だが、あれがでかいどんぶりでドカンとまとめて出てきたらどうだろう。

 量に圧倒されることもあるけれども、食べてるうちにだんだんとそばが延びてしまい、不味くなってとても最後まで食いきれなくなってしまうだろう。

 

 あるいは寿司。

 食い放題の店や他人のオゴリだと(笑)、中トロなどの高級ネタがいくらでも喉の奥へと消えていく。

 だが、これまた山盛りのめしに刺身のサクをそのまま貼り付けたようなシロモノが出てきたらどうだろう。

 食っているうちにどんどんメシは冷たく固くなってくるし、ネタも表面が乾いて変色し、臭みも出てくる。ウマいのは最初の一口二口だけで、後は徐々にもてあますことになるだろう。

 

 さて、大ジョッキ。

 ビールだって同じこと。注いだ直後が一番美味しく、時間が経てば経つほど、生ぬるくなるし、酸化して臭みも出てくる。

 時間経過とともに、ビールはどんどん不味くなっていくのだ。

 にも関わらず、何故皆が皆(特に夏場になると)一気に飲みきれないような量のジョッキを頼むのであろうか。これは、ビールに「喉が渇いたとき、豪快にジョッキで大量に流し込むもの」という固定的なイメージを持っているからではあるまいか。

 最初から飲みきれる量だけをオーダーすれば、ずっと美味しいビールが飲めるというのに。

 

 喉が渇いたときに飲む冷たいビールの旨さ。もちろんそれは否定しない。しかし、要はビールの魅力は「それだけではない」ということだ。

 キンキン冷え冷えビールというのは、カキ氷みたいなものである。

 暑いときのカキ氷は確かにウマい。だが、続けて2杯も3杯も食えるものではないし、ましてや大ジョッキでなんか出されたら日には!

 本当に旨いビールというのは、何杯でも美味しく飲めるものなのだ。「ビールで美味しいのは最初の一杯だけ」というのは、そういう一杯目しか美味しくないようなビールしか飲んでいなかった、ということに過ぎない。

 

 以上は飲む側の問題であるが、続けて供する側の問題を次項において述べる。

 

  目ウロコ話メニューへ   トップページへ