ジギタリス





彼は投げ捨ててあった上着を手に取りベッドからふわりと降りると、まだ呆然とした表情で横たわったままのソフィーの上に毛布を肩まで掛けてやり、その上からぽん、と2、3回ほど軽く子どもをあやす様に叩く。
そして顔を寄せ、優しく囁いた。


「呪いの事もあるし、今夜はここで眠りなさい。一番安全だ」
「、・・・・、・・・・っ」


ハウルがすぐにでもどこかへ出かけるつもりだということを察し、ソフィーは赤子のように駄々をこねる仕草をした・・・が、それは言葉を発せ無い故にそうする他方法が無かったのだ。・・・けれどハウルには、ソフィーの心の音が聞こえているようで・・・


「大丈夫。戦場には行かない・・・約束する」
「・・・・・・、・・・・?」


安心させようとしているのか、彼の声色は限りなく優しい。
そして突然大人びてしまった言葉遣いと仕草。
・・・こういう時の彼は、何を考えているのかソフィーには分からず余計に不安になる。
いつもの子どものような無邪気さが最近の彼の常であったためか・・・突然出会った頃のような彼になってしまい驚きを覚えてしまったのだろう。

・・・だがやはり、ハウルにはそんなソフィーの心の音が聞こえている。


「・・・もう朝だよ。空が大分白んでる・・・」
「・・・・・・」
「空爆はもうないさ」


そう言って、微笑を浮かべてみせる。
・・・ソフィーの額に指先を滑らせ、髪をゆっくりと掻き揚げるようにして撫でる。
突然の感触に、彼女はゾクリとした。


「今夜は僕の我侭で君を寝かせてあげられなかったからね」
「・・・・・・、」
「心配しないで・・・すぐに帰ってくる」
「・・・・・、・・・」



囁くように語るハウルの手に、自分の手を重ねる。
・・・暖かい。
不思議と、不安が収縮していくのを感じた。
これも彼の魔法だとしたら・・・相当、卑怯だ。



しかしハウルには、ソフィーの心の音がそのまま伝わってくる。
先の感情もすっかり読み取られてしまったようだ。


「・・・信用できない?」


瞳を細めて彼は言う。


少しだけ水面のような不思議な瞳に悲しげな光が射したことを認め、思わずソフィーは何度も首を横に振った。これではまるで、本当に駄々をこねる子供だ。


・・・本当に今の自分は、一体どうしてしまったというのだろうか。



けれど、心では理解していた。


今の状態で彼と一時でも離れるのがいやだという実に我侭な自分の心情がそうさせているのだ、と。結果的にそれがいつも彼を困らせているというのに、何故自分はここまで学習能力がないのだろう。



分かっては、いる。


分かってはいるけれど・・・どうにもならない。できない。しようとも思わない。





―――愛して、いるから。







・・・すると。



額をすべるように彼の指先が触れ、そのまま再び髪を掻き揚げられた。
細い精密なガラス細工に触れるような仕草だ。


その感触にソフィーは背中に冷たい物が走るような感覚を覚えた・・・けれどそれは瞬時に熱へと変わる。



自分を見つめるハウルの瞳は優しい。




優しくて・・・哀しい。




「・・・それなら、契約しよう」
「・・・?」




先ほどまでの幼い言動ばかりを繰り返した彼と同一人物とは思えないほどの低い声で、ハウルは囁いた。限りなく、ソフィーの顔に自分の顔を近づけて。


吐息が、今、すぐそこにある。




「簡単な取引さ。そうすれば、お互いの利害を一致させることができる」
「・・・?」
「約束しよう。・・・僕はソフィーが目覚めた時、必ずここにいる」




そう、言うと。


ハウルは端麗な、指輪のはめてある方の指をソフィーの左手の指へと絡めてくる。
反射的に彼女もその指へと自らの指を組んだ。
指と指の間に彼の体温を感じ、安心感と妙な緊張とが駆け抜ける。




「・・・君の望みは、それでいい?」
「・・・」




まるで何かの儀式のようであった。祈るように伏せられていたハウルの瞳がゆっくりと開き・・・そして滑るように彼女を射抜く。


その瞳に・・・嘘は、ない。


それ以前に今の彼女には、その言葉を信じることしかできない。



ソフィーは、こくりと小さく頷いた。


不安と、ほんの少しの恐怖で濡れた瞳をそのままに。



すると彼は、長い前髪の、黒い絹糸から除く蒼い瞳で微笑んで見せた。
純粋で、優しくて、それでいて残酷な彼をそのまま表現したような不思議な瞳。




「・・・それを望むなら・・・それ相応の代償として僕の望みを受け入れなければならない。・・・取り消しは無効だよ。・・・それでも?」
「・・・・・・」
「それでも・・・いい?」




・・・あなたが、無事に帰ってくるのなら。




心の囁きが、彼に直接伝わると分かった上でソフィーは想い、そして頷いた。


すると。



ハウルの微笑から影が消え、それがとても・・・柔らかいものとなる。
ソフィーだけに見せる、純粋で無邪気な、少年の本性をそのままにさらけだしたその微笑み。彼はソフィーに掛けてある毛布を抑えていた自らの手を離すと、そっと顔を寄せて頬に軽くキスをした。




「・・・おやすみ・・・」
「・・・・・・」
「カルシファーに風呂を頼んでおくよ。・・・最近寒くなったし・・・あったまって」
「、・・・」




あなたの、私に願うものは何なの?


そう心でソフィーは問う。そうすればハウルに伝わると分かっているからだ。
もしできることなら、今すぐにでも叶えてあげたいとすら思っていたから。


・・・本音を言うと、ソフィーは心から自分を許せないのだ。
一度ならず二度までも呪いをこの身に受け、またしても皆に心配をかけている。
自分のできることと言えば家事ぐらい。その他には何も無い・・・そう彼女は思い込んでいるからこそ、ハウルの要求はすぐに呑んでやりたいと願ったのだ。


・・・でも。


「僕の望みは、帰ってから言うよ」
「・・・」
「・・・契約は結ばれた。・・・これで僕とソフィーの心はひとつだ」




だから、約束は守る。






そう言い残して。





彼は自室を去った。