ジギタリス





カルシファーの言っていたことを、身を持ってしったような気がした。

彼の心は彼の時間から置き去りにされ続けてきたということも、・・・彼は本当は何も知らない無垢な少年であるということも。
あまりにも純粋過ぎて、不器用な選択肢しか思いつかないということも。
あまりにも優しすぎて、只でさえ繊細な心を自ら縛り上げてしまうということも。


驚いたことに、恋愛における言葉や行為すら、彼よりもソフィーの方が知識があるということも。・・・同年代の少女に比べ、無知に等しいソフィー以上にハウルは何も知らなかった。・・・また、知る気もなかったのだろう。
心が無いという状態が一体どういうものなのかは彼女にも予想しかねた。
なぜなら裏通りで初めて彼に会った時から今に至るまで、彼は大して変わっていないような気がするからだ。・・・無論、本性を露にするしないは別問題として。


けれど。
触れることすら躊躇うほどに――――――ハウルの心は無邪気で真っ白だった。


だが無知すぎる、というわけではないようで。
彼は確かに恋という現象をはっきりと自覚していた。
それはもう、本当に子どものような認識方法だ。



ソフィーの”人生の幸福3条件”を耳にしたハウルは相当嬉しかったようだ。
”3つめ”を聞いた瞬間彼女を思い切り抱きしめ(傍から見れば強引に押し倒したようにしか見えなかっただろうが)、始終朝まで彼女を離そうとはしなかった。

一方のソフィーといえば、すっかり元気を取り戻したように見える彼に安堵した。
自らにかかった呪いに関してはやはり不安は残るが・・・彼のこんな様子を見れば、なぜか、もはや何も怖いとは感じられなくなってしまいそうだった。

彼がそばにいれば、何とかなりそうな気がしてきたのだ。


・・・こうして、言葉を交わすだけで。


生きる歓びを、こんなにまで感じることができる。





・・・もはや彼の身体から羽は消え去り、人間の姿にすっかり立ち戻っている。
ふと顔を逸らせば、名残とも思える黒い無数の羽がベッドの上に散らばっているのが見え・・・同時にそろそろ寝る時分だろうとその向こうにある時計へと視線をやる。

さすが魔法使いの部屋である。
一般の人間では解読不可能なカラクリ時計で、ソフィーでは時間を読むことができなかった。・・・魔法使いしか解読できない時計とは一体どんな意味があるのだろう・・・と彼女は首を傾げつつ、自分の上に覆いかぶさるようにしているハウルの背中に手を回し、ぽんぽんと軽く叩いてみる。
すると、わずかに彼は身じろぎした。


「・・・なに?」


気持ちがいいんだから邪魔しないで・・・と今にも言いそうだったので、先手を打つわけではないがソフィーは平然と言った。


「・・・ね、時間・・・読み方、分からないわ」
「ん・・・」


言ってみて、少しだけ後悔した。
・・・大分言葉が不自由になっていることを自覚させられてしまったのだ。
簡単な要求すら上手く伝えることができなくなっている。
・・・いよいよ、覚悟しなければならないときがすぐ目の前に来ているのだ。

・・・しかし。

それを恐らく察しているに違いないハウルは、能天気に頬ずりしてくる。
丁度、彼の美しい頬はソフィーの鎖骨あたりに触れている。
―――当然、寝間着越しだが。


「・・・やだ」
「・・・はぁ?」
「だってソフィー、教えたら寝ろって言うに決まってる」


・・・ハーッ・・・と、ソフィーは長いため息をついた。
またしてもカルシファーの言っていたことを今度は違う意味で理解した。
確かにハウルは子どもそのものだ。
・・・あくまで、自分の前でのみ・・・らしいのだが。


「・・・あのねぇ。寝坊、したら・・・」


どうにか使えそうな言葉だけで反論してやらなきゃ、とソフィーは頑張ってはみるのだが・・・言い訳の天才とも言えるハウルに今の彼女が叶うはずもなく。


「いいよ。・・・どっちにしても明日は家に居てもらわなきゃ駄目だ」
「・・・え」
「呪いのことは僕に任せて。・・・大丈夫・・・」
「・・・ええ」
「・・・僕はソフィーが90歳でも、喋れなくても・・・構わないけど・・・」


――その言葉に。
ソフィーははっと目をみはる。
・・・彼女からの視界では、彼の長めの黒髪しか見えない。
恐らく表情は自分に頬ずりしているので隠れているのだろう・・・その、中に。

いつもハウルはソフィーが表情を知りたいときに見えなくしているような気がする。
だがそれは当然、ソフィーの思い込みなのだが。


「・・・にしても、僕らって最高じゃない?」
「・・・えええ?」
「だってさ、僕は君の90歳の姿を知ってる。・・・ああでも、色々変わってたから・・・全部の君なのかな。これからの」
「・・・」


そして、ころころと話題が変わっていくのも彼の特徴。
言いたいことが沢山あるのは良いのだが、ついていくこちらの身にもなってほしいわ・・・と毎度のように思うのだが恐らくは言っても聞かないだろうから言わないで居る。
無駄な行為は時間の無駄遣いにつながる。・・・それだけは避けたい。
人生の中で一分一秒でも無駄にする気は一切ない。・・・それが彼女のモットー。


「おまけにソフィーは僕の全部を知ってるし」


・・・だが。
この言葉に、ソフィーはその”時間の無駄遣い”とやらをしてみたくなった。
きっと、いや、絶対このまま彼女が何か言わなければこの話題も露と消え、また気が付けば全く別の話題へと変じていくに違いない。

第一ソフィーは、ハウルの全てを知っているわけではないと思っていた。
だから、彼がそう断言できる理由を知りたいと素直に思ったのだ・・・が。


「・・・ああ、そうそう・・・そういえば」


先手を取られ、話をあっさりと摩り替えられた。
・・・彼に悪気が無いということは分かっている。
子どもというのは、ひたすら自分が言いたいことを伝えたい生き物だ。
ソフィーは長女に生まれたためか、そういった扱いにはすっかり慣れている。
ハウルの癇癪を瞬時にして治めることが出来るのは後にも先にも彼女だけだろう。

しかし、こうも人の反応を気にしない様を見ていると・・・。
ついつい、叱ったほうがいいのでは・・・とすら思ってしまうのもきっと長女だからだろう。


「・・・聞きたいことがあったんだ」
「・・・」


なあに、と言いたかったが、もはやそれすらも叶わないらしい。
だが何故か、だんだん喋れなくなるという恐怖が薄らいできているのだ。
・・・その理由は・・・


「ソフィーは・・・キスの相手、僕が初めて?」
「・・・・・・・・・・・・」


そう。
・・・理由は実に簡単で単純で明快だ。


「僕はソフィーが初めてだけど。・・・ソフィーはどうかなーって」
「・・・・・・・・・・・」


・・・怖がっている暇がないのだ、彼と話をしていると。


「あ、嘘つけって顔してる。・・・ほんとだってば」


それに、言葉を発しなくても十分会話が成立してしまっているからある意味すごい。
逆に、自分の考えていることを手にするように察してしまうハウルが怖い。
実際に今も心情をぴったりと当てられてしまったのだから。


「だって僕、本当は潔癖症なんだよ」
「・・・・・・・・・」


よく言う。


「信じられなかったさ!だってキスってさ、口と口をくっつけるだろ?ってことは相手のツバとか付いちゃうだろ?・・・いくら好きだからってさぁ、理解不能だったよ」
「・・・・・・・・・」


悪かったわね、して。
ソフィーはだんだん腹がたってきた。
・・・ここまで言われたら、普通はたつ。彼女は正常だ。異常なのは彼。


「ああ、そうじゃなくって。・・・だから吃驚したんだ。・・・ソフィーは平気だったから」
「・・・・・・・・・」


そこは喜ぶべきところなのだろうか。
平気、という表現だと何だか微妙だ。


「同時に納得した。・・・だから恋人同士はキスするんだって」
「・・・・・・・・」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


「キスがあんなに気持ちが良いものだなんて知らなかった」
「・・・・・・・・・」


・・・ソフィーは。
今、実際に言葉を失っているが・・・あらゆる意味で、本当に言葉を失った。
彼の言葉が嘘偽りではないということの証だった。
切実な感情と、考えがそのまま心に伝わってくるような言葉ばかりだったのだ。


そして。


ふと視線を下ろすと、いつのまにかハウルが顔を上げてこちらを見ていた。
心を取り戻し、以前にも増して意思の力が宿った青い瞳をまっすぐにこちらへ向け、微笑すら浮かべてソフィーを見つめている。

・・・こういうとき、憎らしいくらいにハウルの美貌は際立つ。
黒髪になった時彼はわめき散らしたものだが、今こうして改めてみてみれば、彼に黒髪は良くにあっている。・・・きっとこれが地毛の色なのだろう。
この世界で、黒髪というのは実に珍しい。それが余計に彼の不思議な魅力を引き立てていて絶妙なバランスを保っている。
ソフィーは素直に、ハウルを綺麗だと感じた。

そんなことばかりを考えていたためか・・・思考がぼーっとぼやけていた。
それでもハウルは会話の続きを・・・珍しく今回は話題を長く繋げる。


「ソフィーと一緒になれたような気がした」


それは、一時的接触で身体が少しだけ繋がった、という意味なのだろうか。
・・・まだ彼女の頭の中はぼーっとぼやけている。
・・・眠い、というものとは全く別のぼやけ具合だ。


「・・・あの時は、余裕なかったけど」


独りで戦い、傷つき、カルシファーの火が消えかかっていた。
そんな渦中にあっても、ずっとハウルはソフィーを待っていたのだ。
・・・あの時からではない。・・・子どもの頃から、ずっとずっと。

ソフィーの心も、ぼーっとぼやけてきたような気がした。
暖かいお湯に包まれているような感覚だ。


「・・・感じたくて、一回だけしたかな。僕から」


城を建て直し、みんなで暮らし始めたばかりの事件後二日目。
・・・まだあれから一週間も経っていないのだ。
彼とは随分前から一緒に住んでいるような感覚が何故かあり、ソフィーは不思議な気分になった。・・・まだこうして平和に暮らし始めてからは・・・一週間未満。
そんな中彼が新しく作り直した城を案内しがてら、彼女をテラスに誘ったのだ。

多分ハウルはその際にした軽いキスのことを言っているのだろう。
・・・軽い、とはいってもソフィーにとってはいずれにせよ命がけだった。
手を握るだけでも心臓が元気に暴れだしてしまうというのに。


「・・・ねえ・・・ソフィーは、僕が初めて?」


すべらかな白くて美しい彼の指先が、ソフィーの髪を優しく掻きあげる。
それに深い意味はなく、ただ単に彼女の顔が髪に隠れてしまいよく見えないと思ってやったことなのだろう。


「・・・覚えてない?・・・ないくらいに、した?」


返答しないのを否定と捕らえたのか。
ソフィーのぼやけていた思考は強風にあおられ霧は全て取り払われる。
これが理由でまた闇の精霊でも呼び出されてしまったらかなわない。
ソフィーは何度も首を横に振って見せた。
・・・本当のことだ。


しかし。


ハウルは疑いの眼差しでじっとソフィーを見つめているではないか。
完璧に信用していないようだ。


「・・・ソフィーはキス魔だしね?信用できないな」
「・・・・・・・!」


これにはさすがに頭にきた。
ソフィーは頬を膨らませて、喋れたら沢山抗議をして叱ってやる!と心で呟いた。


「・・・だけど、いいんだ。・・・これからは僕とだけ一緒になればいいんだ」
「・・・」
「・・・ねえソフィー・・・もう一度繋がりたい・・・」
「・・・」
「・・・ソフィー」




反論する暇もない。



ソフィーはハウルに両頬を捕まえられ、水晶のような青い瞳にも捕まえられた。
身体は彼が覆いかぶさっているものだから、身動きもとれない。


完全に無防備な自分が浅はかだったのか。





・・・等と。色々とソフィーは考えたが・・・相手はハウルだ。
それに彼は、本当にキスしか知らない。
にわかには信じがたい真実だが、本当のことなのだから仕方が無い。


ソフィーが抵抗しないということを察し・・・彼は瞳を細めて見せた。
突然子どもが大人びて、男になってしまった。
まるで罠にかかってしまったかのような気分にさせられ、それが何故か悔しい。
喋ることができたなら、反論の嵐を振らせてとことん困らせてやるのに!


と。


癇癪を起こしかけたソフィーに水をぶっかけるかのように。




ハウルは、ソフィーに唇を触れ合わせた。



同時に、押さえつけられるように、抱く腕にも力がこめられていくのを感じる。
自然と、ハウルの背中に腕を回している自分にもはや彼女は驚かない。
・・・本当に触れるだけのキスだった。
・・・触れ合わせることしか知らないのだから当然なのだが。



・・・などとくだらないことが自然と頭の中で勝手に繰り広げられていると、まるでそれを察したかのようにハウルは唇をほんの少しの隙間をあけて離した。

ソフィーは夢から覚めたような心地になり、閉じていた瞳をわずかにあける。

・・・と。
そこには、何故か怒ったような彼の顔。


「・・・?」


不思議に思い、小首をかしげてみせる。
言葉が通じないというのは、こういうときに不便で仕方が無い。
突然変貌するのはハウルにとっては日常茶飯事であるため彼女は驚かないが、そんな彼についていくには状況を知っておかなければならない。

しかし。


「・・・ソフィー、随分とキスに詳しいね」
「・・・・・・・・」


言葉を発することのできるハウルの台詞は、ソフィーにとっては全く意味をなさないものであった。・・・なぜなら、何を言っているのかまったく理解できなかったからだ。
どうしてそういう事をいうのか、理由がわからなかった。

・・・と、同時に。

嫌な予感も・・・した。
それも、最大級の。


「触れる以外にも、違うキスがあるの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」












・・・ああ。









「確かに僕はこれしか知らない。・・・でも・・・どうしてソフィーが知ってるの・・・?」


ハウル。


「誰かに教えてもらった?」


あなたってひとは。


「・・・噂?・・・それとも実践?」


・・・無知だから、知らなくても当然だろうけど。


「確かに僕は無知だけど。・・・だからこそソフィーは答えるべきなんじゃない?」


・・・無知だから、気が付かなくても仕方ないのだけれど。


「仕方ないで片付けないで・・・僕はそいつに勝たなきゃいけないんだからね」


だから、実践なんてしてないってば。
妹とか、帽子屋でご夫人方の話はいやでも耳に入ってくるものなのよ。


「・・・嫌なこと吹き込むんだねぇ」


・・・ああもう、全然信用してない目だわ。


「だってソフィー、キス魔だから」


何よそれ!


「そのままの意味さ。・・・いい。僕もキス魔になってやる。覚悟してね、逃げる準備をするなら今のうちだよ」


逃げられるわけないじゃない!


「逃がす気ないもん」





・・・・・・・・・・・・・・じゃなくって!!








・・・そこで。





ようやくハウルは気が付いた。





「・・・ソフィー・・・今僕達・・・どうやって会話してた?」





ああもう。


ハウルもわざとじゃなくて、気が付かないで喋ってたのね。





どうやら、彼がソフィーの心を読んでいたわけではないようだ。