ジギタリス





ハウルは、自室に篭ったきり夜になっても姿を現さなかった。
マルクルには”たまにあるんだよ、ああいうこと”とさりげなく励まされ、ソフィーは皆が寝静まった頃、入浴を済ませて寝間着に着替え・・・わずかな明かりが灯っていることを確認した後にハウルの部屋の前で立ち止まる。

今日は一日中起きていようと心に決めた。
そして、全てを話そうとも心に決めていた。

だからこうして、ゆっくりと話ができる夜という時間帯をソフィーは敢えて選んだ。
少しの間だけでも、彼を戦争から遠ざけたいという切実な願いによるものだ。
けれどこの願いは、ハウルが自分を思っていることと全く種類が同じで・・・ソフィーには彼を止めることができないという不安も確かに存在していた。


しかし、さっきの今だ。
あんな事実を知っておいて、聞かぬふり・・・というわけにはいかなかった。


ソフィーは勇気を出し。
・・・恐る恐る、ハウルの部屋のドアノブに手をかける。


同時に。
中の気配が素早く動いたような気がした。
瞬時に嫌な予感を察し、思い切りドアを開け放つ。


・・・そこには。




「・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・!!」



やはり・・・思うようにはいかない。
ソフィーは自分の喉を押さえ、彼の元へと駆け出す。
彼の表情は一度開け放たれた窓のほうへと向けられたが・・・彼女の必死の顔を見て躊躇った後・・・飛び込んできたソフィーの身体を全身で受け止めた。


黒い、羽の生えた身体で。



「・・・、・・・。・・・ごめんなさい・・・」



羽毛のせいか、ハウルの腕の中は暖かい。
それが余計に切なくて、ソフィーは大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
それは彼の身体の中へと侵食し、消えていく。

悪魔と契約していたときほどの変貌ぶりではないが、ハウルの身体は漆黒の羽に覆われ、かろうじて細い、人であるような姿はとどめているがその爪は鷲のごとく鋭く、足もまた然りであった。
表情は、髪の色が黒いこと意外はあまりいつもと大差はない。



「・・・ノックぐらいしてくれよ・・・心臓が止まるかと思った」
「・・・止まらないわ・・・止まらせたりなんか絶対しない!」
「ソフィー・・・」


背中にある彼の腕に、力が篭る。
怪鳥であるためか・・・少しだけ、痛いと感じるが全然構わなかった。
この痛みが彼が生きていることを教えてくれていると思えば、平気だった。


「・・・、私、全部話すわ。これからはいっぱい我侭いうし、沢山困らせてあげる」
「・・・ソフィー・・・」
「・・・、だから・・・独りで行かないで・・・お願い・・・」
「・・・、・・・ソフィー」


爪が食い込みそうになる。
けれど、それが彼なら構わなかった。
ソフィーはひたすら全身の力をこめてハウルを抱きしめる。
彼もまた、何度もかすれた声で彼女の名を呼び続ける。
・・・そして・・・それが潮時だった。


ソフィーは、唇をきゅ、と結ぶ。


「・・・わたし・・・呪いにかかっちゃったみたいなの」
「・・・・・・」


ハウルは、何も言わない。
まるで呼吸すらしていないかのような沈黙にソフィーは不安を覚える。
なぜか、何か一言でも発しなければならないような気になって、思いつく限りの言葉と単語をどうにか不自然ではないように気を使って並び立てた。


「カルシファーは・・・命に別状はないって。・・・死ぬことはないわ。だから平気」
「・・・死ぬなんて言うな」
「・・・、・・・ね、大丈夫だってば・・・私は殺されたって死なないわ」
「殺されるなんて言うな!」


骨が折れそうなくらいの、力強い腕。
これにはさすがにソフィーも激痛にうめく。
尋常ではないくらいの強さだった。
けれど・・・それがハウルの、ソフィーに対する思いに比例したものであると思うと・・・

切なくて、悲しくて・・・いとおしい痛み。



ハウルはソフィーの首筋に顔を埋めて、嗚咽すら交えて囁いた。
その姿は、黒き鳥のままで。



「・・・僕の誤算だったんだ・・・カルと協力して君を守りきれてたつもりだった。・・・なのに僕は魔法で君を守るどころかその副作用で君を結果的には傷つけたんだ・・・」
「・・・」



まるで、子どものような。



「墓場でソフィーを見つけた時・・・本気で、死ぬかと思ったんだ・・・」
「・・・・・・」
「守りきれなかったんだって。僕の魔法はその程度だったんだって・・・だんだん自信が無くなって・・・怖くなった・・・もう僕は悪魔の力がないから・・・サリマン先生が今度君を狙ってきたらって思うと・・・じっとなんて、していられなかった」
「・・・・・」
「・・・君が、・・・戻ってきてくれて、・・・よかっ、・・・・」
「・・・・・・・・、・・・・・・ごめん・・・、・・・ごめんね・・・!」



震える、黒い腕。
けれどその顔は、黒髪の、久しぶりに見た弱虫のハウル。
泣きじゃくってソフィーから離れようとしない彼に、ソフィーは何もしてやれなかった。
自分がこうしてここにいるから、彼は苦しんでいるのだ。

・・・このままここにいて、本当に彼は幸せなのだろうか。
そんな疑問が浮かんでは消えた。

もしこの感情が、この先彼の足を引っ張って、陥れるものだとしたのなら・・・。





自分は。


もしかしたら。


ここに、居ないほうが・・・・・・・・・・




そう思った矢先。
はじかれたように、濡れた青い瞳がソフィーを見た。
悲しみとも、切なさとも、怒りとも取れる瞳のゆらめき。

・・・恐怖に、似ていた。



「・・・今・・・何考えてた・・・?」
「・・・・・・」
「・・・君は・・・僕を置いてどこに行くつもり?」
「・・・・・」
「ソフィー!」
「・・・、・・・・・・・・」



彼は、気付いているのだろうか。
この呪いが、一体どんなものであるのかを。
自分は昼間に気が付いた。・・・呟こうとして・・・それが不可能になってしまっていた。
衝撃的な、絶望を感じた。
そして、その理由が分からなかった。



「・・・あなたの名前が・・・呼べないの」
「・・・え・・・?」



彼が目を見張ったのが分かる。
いたたまれなくなり、その視線から逃れようとソフィーは俯いた。
そこには、彼が落とした一枚の黒い羽。
・・・余計にいたたまれなくなる。



「・・・あなたの、名前・・・呼びたいのに・・・言葉になって、くれないの・・・」
「・・・・・・・・・」
「それに・・・だんだん、喋ることが難しくなっていくの・・・」



きっと、だんだん言葉を失っていく呪いなのね、とソフィーは呟いた。
それは自分自身に言い聞かせ、覚悟を決めようとしていることでもあった。
ハウルは・・・何も言わない。
ただ彼女の方に頭を預け、首筋に顔を埋めているだけである。



「ごめんなさい・・・何も・・・言ってあげられることができなくて・・・」



このままでは、叱ることも、意思疎通も不可能になってしまうかもしれない。
皆が繰り広げる楽しいひと時に、参加することもできなくなってしまうかもしれない。
本当はそれが、怖くて怖くてたまらない。
けれどそうなることで、彼が自分を責めることはもっと嫌だ。

でも・・・魔法を知らないソフィーには、どうすることもできないということも現実的に良く分かっていた。どうにもできないことも、どうにもならないことも。



「ねえ」
「・・・」



だから。
いまのうちに、伝えておきたい言葉がある。



「私はね、今生きている中で最も幸せなことが・・・そうね、代表三つあるわ」
「・・・うん。・・・教えて」



ようやくハウルはここでわずかに笑顔を見せた。
その青い瞳は、いまだに濡れたままだったけれど。
その笑顔には、不安が拭いきれていなかったけれど。



「一つは・・・眠ること。・・・もう一つは・・・食べること」
「・・・ソフィーらしいや」



ふふ、とハウルは笑った。
かなり弱弱しい笑みではあったが。



「・・・あと、もう一つは・・・」



そう、ソフィーは呟いて。
肩に感じるハウルの黒髪を、そっと撫ぜてやる。
それに彼は心地よさそうに目をわずかに細め・・・それでもソフィーを見つめる。
ひと時も、離さぬように。



「・・・こうやって・・・あなたに触れること。・・・触れられることよ」








その、瞬間。






世界が、反転した。
壁の絵が、天井へと視線が強制的に移された。



・・・身体ごと。