ジギタリス
自分が明らかにハウルを傷つけてしまった、ということに今更気付いた。 ・・・そして、気付いた時にはもう遅かった。 けれど彼は、ちっともソフィーを責めたりしない。叱りもしない。 只黙って、出来うる限りの静かで優しい微笑をその美貌に称えるだけである。 空というよりも、水のような色をした青い瞳をまっすぐに、ただ彼女だけを見つめて。 どうして気付いてあげられなかったのだろう。 どうしてわかってあげられなかったのだろう。 彼が感じていること。願っていること。その、全ては自分と共鳴しているはずなのに。 彼が傷ついた理由・・・それはかつてソフィーが感じたことと全く同じはずなのに。 ハウルがソフィーを守るためにたった一人で戦場の空を飛んだのは、ソフィーがハウルを助けたい一心で駆け抜けた事と全く同じことであるはずなのに。 彼が彼女を守る手段を、彼女が遮断した。 ・・・否、ソフィーがどれだけ防壁を張ろうとも、ハウルはその気になれば平気でそれを破壊することができる。それだけの力を持っているのだ。 例え、悪魔との契約を破棄し、大半の力を削がれていたとしても。 彼は、ソフィーの知る限り、あのサリマンを除けば最強の魔法使いだ。 十分に。 城へ帰る間、握られた手が痛かった。 こんなに強く握られたのは初めてだった。 いつもは羽に触れるように、優しい手。 けれど、今は何かからソフィーを逃れさせるように、何かからソフィーを奪われないように、ひたすら彼女の手を情け容赦なく引っ張りあげる。 表情は、いつものハウルのままなのに。 瞳は、嘘をつけないのか。 城に着き、扉を開けるとハウルはようやく手を離した。 そして陽気にソフィーめがけて突進してきたヒンの首根っこを楽々と掴むと、マルクルに渡し、飛んできたカルシファーに何かを告げ早々に2階へと消えてしまった。 その間、一切彼はソフィーの顔を見なかった。 ・・・相当怒っているのかもしれない・・・。 只一つの不安が、彼女の心を締め付ける。 けれど、元はといえば自分が撒いた種である。自分が撒いた種は自分で育て、自分で花が咲くのを見届け、そして刈り取らなければならない。 今までソフィーはそうして生きてきた。 父親が無くなった後も、ずっとそうして生きてきたのだ。 独りで生きていくと心の中で覚悟して、そう決めていたから。 独りでも大丈夫なように、かたくなに心を閉ざしてきたから。 自分が女であることも、半分は忘れかけていたから。 それが、こうして変わることができたのは・・・ハウルに恋をしたから。 それなのに。 「ソフィー!おかえり」 「・・・カルシファー」 ドアの前で立ち尽くしたままのソフィーの傍にカルシファーがふよふよと寄ってきた。 今では彼も自由の身だが、率先してこの城の動力を買ってでている。 ハウルとは長い付き合いのため、友人もしくは兄弟のような感覚なのであろうが、とくにこの火の悪魔はソフィーに対してはとびきり優しい。 だから、ソフィーの異変にはいち早く気付くのだ。 ・・・いや。・・・彼は悪魔であるためか、彼女の容態にはすぐ気付く。 しかしカルシファーとハウルの違いは、聞くことを迷うか否かということ。 ・・・カルシファーは、迷わない。 ハウルとは違った意味の純粋で単純な心を持っているからだろうか。 彼は堂々と言った。 「・・・ソフィー・・・また誰かの呪いを受けたのかい?」 「・・・!」 ソフィーは、はっと目を見張るようにカルシファーを見つめる。 それに彼は居心地が悪そうに、丸いからだから細い腕を出現させて頬をかく仕草をしてみせる。・・・随分と、心配しているような表情で。 「・・・ごめんよ。おいら、黙っててもそういうのに敏感でさ」 「・・・」 「ハウルに相談したのかい?」 「・・・」 二人の深刻な会話の外野では、ハウルに半強制的にヒンを抱っこさせられたマルクルが、ソフィーに抱きつこうとしたのに邪魔されてしまった腹いせに大暴れしているヒンを押さえ込もうと必死に何かを怒鳴っている。 その様を、魔女の老婆がぼけっと眺めている。 ・・・おそらく彼らにこの会話は聞こえていないだろう。 「でもさ、心配することないよ。ばあちゃんになったりしないし」 「・・・」 「死んじゃったりとか、そういうのじゃなさそうだしさ!」 「・・・」 それはきっと、慰めの言葉でもあろうが真実のことだろう。 カルシファーは悪魔だが、決して嘘はついたりしない。 「昨日ソフィーとハウルがずぶ濡れになって帰ってきた時は気付かなかったけどさ」 「・・・!?・・・それ・・・何のこと・・・」 昨日の消えてしまった自分の記憶。 それをカルシファーが一部ではあったとしても知っているということが分かり、ましてや自分がハウルとずぶ濡れになって帰ってきた・・・という事実を聞いて・・・ だんだんと、深い霧にかかってはいるが・・・記憶が徐々に蘇ってくる。 「すごい熱だったみたいだから覚えてないんだね。・・・昨日の朝から何だかしらないけどハウルはそわそわしててさ。何のこっちゃって思ってたけど・・・オイラも少しだけその気配を城の外あたりに感じてたんだ」 「・・・」 そんなこと。 ・・・全然、気付かなかった。 だがこれは一般の人間では全く気付くことなどできない、繊細な気質なのだろう。 ハウルもカルシファーも優秀な魔力を有しているため、誰も気付くことのできない何かを察することができるのかもしれない。 「最初は別の悪魔かと思ったけど、どうやら人間の魔法によるものみたいでさ。・・・よわっちぃけど、その気配がソフィーの周りを漂ってたんだ」 「・・・・・・」 「新しく城を作り直してからも、ハウルは夜中に行き先を黒にして出かけてる」 ・・・まさか・・・それは。 「・・・戦争は終わってないんだぜソフィー。どちらの国にとってもアイツの力はおっかないんだろ。戦艦一個、独りで落っことすくらいの力はね」 「・・・どう・・・して・・・?・・・どうして!?」 「そ、ソフィー!」 ・・・カルシファーに両手を述べて包み込む。 不思議と熱くないのは、彼自身が火傷しないように何かのベールを張っているのか。 しかし今のソフィーの頭は完全に血が上っていて、まともな対処ができなかった。 もう無いと思っていた不安が、倍になって帰ってきたのだ。 「アイツはソフィーに知られたくなかったんだよ!ソフィーが誰より戦争を嫌いかって知ってるから・・・その・・・ヤバイ夜は戦場を飛んでるんだ」 「・・・なによ・・・やばい、って・・・」 「空襲がくる夜。・・・前よりは数も減ったけど・・・外は自分が守るって聞かないんだ」 「・・・」 「でも誤算だったんだよ・・・連中はハウルの弱点を知ってるってこと忘れてたんだ」 「・・・弱点・・・?」 彼は、基本的には弱虫だ。 ・・・いや、弱虫”だった”。 弱点といえば、それら全てが彼を覆いつくしていたようであったから、一つとは限らないとソフィーは勝手に解釈していた。・・・だからカルシファーの言っていることがなかなか理解することができなかったのだ。 そして、そんなソフィーのソフィー自身に対する無頓着さが結果的にハウルを苦しませることへと繋がってしまったのだ。 「弱点をつけば、味方にできるとか考えたんだろ。人間なんて案外馬鹿だからな。・・・だから連中はソフィーに呪いをかけはじめた。・・・魔法使いを何人も使ってさ。けどそんなことにアイツが気付かないわけないだろ?はたから見ればなるべくソフィーにはいつもどおりに生活させといて、いつも見張ってたんだ」 だから、彼は毎朝早く起きてソフィーを起こし彼女の手伝いをしていたのか。 ・・・否。夜は戦場で戦っているのだから・・・寝ずに、か。 ・・・ズキリと、胸が痛んだ。 動悸が、してきたかもしれない。 握った手のひらからは・・・嫌な、汗。 「で、全部おっぱらってきた。いっとくけどな、オイラだって頑張ったんだぞ!城の表面にとびきりの結界を張ってソフィーを守ってやってんだからな!」 「・・・カルシファー・・・」 「・・・昨日の朝だって、ハウルがソフィーに固い結界を張って、おまけにしかけもしといたんだ。・・・呪いをしかけた奴に魔力を跳ね返して、そいつを特定する術さ」 「・・・それが・・・」 「思いっきり皿をつっついてただろ?・・・あれだよ。・・・強力な魔法でさ、掛けた人間は副作用でちょっぴり弱気になっちまうんだ」 「・・・・・・」 ・・・思い出してきた。 昨夜、ハウルは確か言っていた。 ”せっかく僕がいじってやったのに”と。 だが彼はその理由を、”調子が悪そうだったから、自分の意思に正直になる魔法をかけた”・・・のようなことを言っていた気がする。 けれど・・・嘘を言っているわけではなかったことがわかった。 全て、本当のことだ。 気弱になるということは、忍耐が多少低下するということなのであろう。 ソフィーはあの時本当に体調が悪く、仕事をする気がなくなってしまったのだ。 ・・・いつもであれば、這ってでも仕事を続けたであろう。 そして、また思い出した。 ハウルが、”けどそれが、君にとんでもない道しるべをしてしまった”・・・と。 弱気になった心は、母の言葉に直球で傷つき・・・ 気がついたら救いを求めて無心で豪雨の中をひた走り、父の眠る墓地へとたどり着き。・・・泣いて、泣いて、泣き喚いて・・・倒れてしまったのだ。 ハウルはそれを見つけ出し、助けにきてくれたのだ。 「あの時のハウル、尋常じゃなかったぜ。いつまでもソフィーが帰ってこないからさ」 「でも私・・・遅くなるって言ったわ」 「ソフィーに結界張ったのはハウルなんだぜ?副作用のことを一番良く知ってるのはハウルだから、もっと早く帰ってくるってわかって当然なんだ」 「・・・」 黙り込み、俯いてしまったソフィーに、カルシファーはあたふたとそこらじゅうを飛び回り、焦った口調で色々とまくしたてた。 「だ、黙ってたのは悪いって思ってたよ!でもオイラ、ソフィーの事心配だったし・・・ハウルの気持ちも分からなくもなかったし・・・」 「・・・・・・・・・・・」 「・・・ハウルの心は、あのまんまなんだよソフィー・・・」 「・・・!」 はっと目を見開き、顔を上げるソフィー。 カルシファーは弱弱しく、青い光を放って見せた。 流れ星特有の、あの色を。 「オイラと契約したあの夜のまんまなんだ・・・」 「・・・」 「・・・身体は大人でも。心は子どものままなんだよ」 だから、心を失っていたときには平然とできた器用なことが、心を取り戻してから様々な感情が働き・・・どうすればいいのか分からなくなってしまったんだ、と。 ソフィーの心の泉に、波紋が広がった。 |