ジギタリス





あれほど威厳を保っていたはずの杖は、まるで卵の殻のように割れた。
かなりの硬度であったであろうに薄い膜がはじけたような音がかすかに鳴っただけ。

その様を、サリマンも、ハウルもただ傍観している。
彼女は無表情、彼は薄い微笑を浮かべて。

白い煙を上げ、それは徐々に形を失っていく。
塩酸の中に放り込まれたように無残な状態へと変じ・・・それがやがて液体となり、蒸発し・・・紅い煙となっていく。・・・酷い匂いだ。
だがハウルはやはり動じない。
ただ静かに足を組んだ姿勢のまま、椅子に深く腰を掛けてそれを眺めている。


その、丁度足元に。


「・・・ハウル」
「はい」


黒い、不自然な形の影。


「あなたがここに来た理由は、最初から判っていましたよ」
「・・・」


徐々に、広がって。


「見に覚えがあるもの」
「・・・」


無数の、腕。


「弟子であった貴方なら、私の呪いは全て”これ”に司らせているということも知っている・・・そのことも、私は知っていましたよ」
「・・・・・・」


ハウルの足に、縋るようにしがみつく。
紅い、煙の影。


「本当はお母様に直接言いたかったのだけれど・・・仕方がありませんね」
「・・・・・・・」


膝のあたりまで、絡み付いて。


「あなたのお母様、魔力は感じられないのに悪魔と意思疎通を果たしたわね」
「・・・・・・・」


腕にまでたどり着いた。


「契約もしていないのに、悪魔はあなたのお母様のいいなりだわ」
「・・・・・・・」


肩を、縛られて。


「王国にとって、それがどれだけ危惧すべきことか・・・判りますね?」
「・・・・・・・・」


首をも、捕らえられる。
・・・それでも、まだハウルは顔色一つ変えずにただサリマンを傍観している。
何も無い風景を眺めるように。


「このまま放置し、あなたのお母様のように魔力もない人間が悪魔を利用し共存すれば・・・下手をすれば王国の秩序は乱れるでしょう」
「・・・・・・」
「だから私はお母様に・・・お母様を守るために呪いをかけたのです」



・・・守る”ため”。
ソフィーに呪いを掛けた。
それも街を生活するために細々と歩く彼女を。
何も知らない彼女の周りを王室魔法使いが気付かれぬように取り囲み・・・何度も何度もかけたのだ。


”あのような”、恐ろしい呪いを。



「ハウル」
「・・・・・・」
「お母様をこれへ。王宮で保護をします・・・丁重に」



・・・”保護”?
それも、丁重に?



「あの方はとても危険です。・・・あなたもいい加減目を覚ましなさい。悪魔をとりこむような女性です・・・あなたも下手をすれば被害者なのかもしれませんよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」



紅い煙の影に拘束された彼の。
あたり一面が・・・全く違う”気”と変じ。



「・・・私の元に帰りなさい。それがあなたにとって一番・・・」
「―――・・・・・・・・・・」



・・・・・風を、呼び。




「・・・・・・”不幸”ですよ。先生」





冷笑を浮かべ。







―――――――解き放つ!






竜巻のような轟音が何も無いはずの異空間に広がり、それは彼が広げた黒き翼の出現によるものだとサリマンが気付いたのは・・・ハウルを縛り付けていた紅き煙の影が霧散した様を確認してからだ。

もはや彼は鳥にはなれないらしい。
悪魔の力が途絶えたのだから当然といえば当然の現象だが・・・

その美貌に出現した黒き翼だけは健在だった。
まるで―――堕天使のような。


サリマンは、瞳を細めた。


「・・・人間らしくなりましたね」


それは、彼女の素直な感想だった。
悪魔に心臓を預けていた期間、ハウルは本当に人間離れした能力を所有し、身体ばかりが成長し心だけが置き去りの少年そのものだった。

だが、今は違う。
その瞳には理性があり、その面には知性すら感じさせる。
言ってしまえば、サリマンが”望んでいた”ハウルそのものだ。


・・・けれど。


ハウルは冷徹な美しい微笑を浮かべたまま言う。


「・・・先生は、人間ではなくなってしまいましたね」
「・・・・・・・・・・・・・」


堕ちる沈黙。
彼女はこのハウルの発言に明らかに動揺した。
新種の魔術を駆使した彼には一切驚きを示さなかったというのに、彼のたったの一言で確かに息を呑んだのだ。


「ソフィーを捕らえて僕を引き込んで・・・あなたは一体何がしたいんです?」
「・・・・・・・・・」


答えは、ない。

この時、ハウルの表情から笑みが消えた。
偽りの微笑すら浮かべず、広げた羽を静かに閉じる。・・・消えては、いない。


「ソフィーを守るため・・・?熱病発生呪詛に、母親を利用した精神呪詛・・・どれもこれも徐々に命を蝕む呪いだ。これのどこがソフィーを思ってやったことだと?」
「・・・心をなくせば、悪魔との意思は絶たれます」


つまり感情さえ無くなれば、ソフィーとカルシファーとの間で会話が成立しなくなる。
いたって単純で、馬鹿らしいほどに簡単な答えだ。
けれどその副作用はすさまじく、”心”そのものを失うということ。
ハウルがカルシファーに心臓を預けていたこととは全く訳が違う。
跡形も無く心は消滅し、思考のみで生きる人間となってしまうのだ。

・・・死んでしまうのと同じだ。
回復することはまず有り得ないのだから。


「・・・悪意としか思えないな」


今度は。

杖ではなく、サリマン本人に容赦なく言葉を吐き捨てる。
冷笑どころではなく、確実に冷たい意思が焔をあげた青い瞳が静かに揺れていた。

彼は滅多に怒らない。
感情では怒っていてもそれを決して人前で表に出したりはしない男だ。
余裕すら感じさせる態度で、無邪気に笑うことだってできる器用な男なのだ。


そんな、彼が。


今。


確実に、怒っている。



・・・怒るだけで済まされればまだ良いのだが。
何せ、心を取り戻した後のハウルの”本気”は未知数だ。
悪魔との契約が破棄され弱体したのか、はたまた取り戻した心臓を得て強力化した精神により成長したのか・・・彼はブラックホールのような男だ。
透明なようで、中身がどうなっているのか分からない。
一度のめりこめば、二度と帰れない。

不思議で、恐ろしく、残酷で・・・優しい魔法使い。


「僕は・・・誰も・・・殺したくは・・・ありません」


一言一言を、水面に落とすように彼は言う。
少しだけ伏せられた瞳は暗い。
零れ落ちた言葉は重く・・・低い。


「ですが」


サリマンも、もはや微笑すらも浮かべない。
この漆黒の異空間にハウルと正面から向かい合う。



お互いに、こうして相見えるのはこれが最後だと判っていた。



「僕は」



お互いに、もはやわかりあえぬことも判っていた。



「ソフィーほど」



サリマンの真意のほどは、ハウルには到底測りかねた。
否・・・それ以前にハウルは目前のソフィーの危機の方が何よりも優先すべきことだと思っていたので今ではもはや一寸の興味すらも沸かなかったことも事実だ。

だからこそこのような罠の中心地に丸腰で乗り込み、呪いの”礎”を破壊した。
これでこれ以上のサリマンによる呪いを一時的に防止することができる。



けれど。



それは本当に、一時的に過ぎないのだ。



ソフィーに残された時間は・・・・・・



「甘くは」





限りなく、短い。




「ない」











ガラスが割れる音がした。
突き破った瞬間、翼に痛みを感じたが構わずに上昇した。
宮殿の兵士達が銃を撃つ音も聞こえた。
取り巻き達がサリマンに駆け寄り、叫んでいる声も聞こえた。



だが、ハウルは振り向かなかった。
以前のように完全な鳥ではなくなってしまった身体。
身体には羽すら生えぬ、只のヒトに黒き翼が生えただけの身体。
速度も大分落ちたように思える・・・でも。



飛ぶことしか、できない。



礎を破壊しなければ、ソフィーに何重もの呪いが掛けられ続ける。
いくらハウルが解呪を繰り返しても、次から次へと彼女に呪いが掛かるのだ。

だからハウルは堂々と宮殿にのりこみ、その礎・・・”杖”を破壊した。


けれど。


礎を破壊すれば、それに対抗してきた術・・・つまりソフィーを守っていたハウルやカルシファーの術も対抗すべき存在を失い一方通行状態になってしまう。


要するに・・・ソフィーの体内で命を蝕み続けてきた呪いは礎を破壊しても残ったままであり、それを完全に解呪しなければ彼女の中で暴れ続ける。
挙句ソフィーを守り続けてきたハウルの魔法は無効化する。


危険な賭けだった。
だが、これ以上のベターな方法は無かった。
だからできるだけカルシファーに城をこちら方面へ動かし待機するように頼んでおいたのだ。自分が早く城へ帰らなければソフィーはサリマンの言うように廃人になってしまう。只生きているだけの人形になってしまうのだから。





「カルシファー!」




高速で旋回しながら指輪へと叫ぶ。
風を突き破るような轟音が耳障りだが、それは両耳のピアスの魔力でいくらか軽減されカルシファーとの会話に支障は無かった。



『ハウル!』
「このまま直接ソフィーの所へ!」
『・・・ごめんハウル・・・オイラのせいだ・・・!』
「何の話!?いいから僕を送ってくれ!」






そして。




天上に暗雲が現れ・・・ハウルはそれへ上昇し。




追っ手がそこへたどり着く寸前でそれは消えた。








しらみつぶしに探せ、という軍隊をサリマンは大人しく制した。
表情には微笑が戻っている・・・が、それは自嘲に似たものだった。

先ほどのハウルは、自分の知っているハウルとは全くの別人だった。
悪魔と契約していた頃よりは理想の形に収まってはいたが・・・それはあくまで態度と上辺のみであり、中身までは探ることが彼女にもできなかった。


怒る、という現象は彼に心が戻った証拠だ。
しかし・・・以前ソフィーを迎えにきた彼の顔を見たとき、心とはまた別の感情のようなものが彼に宿っていることもサリマンは感じた。



・・・わかっては、いた。



ハウルの感情も、心も、思考も、決定も、全てを司っているのは彼のいうところの、”王様”・・・とやらだ。そしてサリマンは、それが誰であるかも見抜いていた。



見抜いていたからこそ。




ソフィーのことが、許せなかったのかもしれない。





「・・・弱まるどころか・・・恐ろしく強力になっていますね」




そう、まるで独り言のように呟いた。