ジギタリス
飛びぬけた瞬間に目の前に広がった光景は・・・いつもの城のドアの前。 それも内側から見たドア・・・つまりハウルは城の玄関前に瞬間移動したようだ。 背後で弱々しく燃えている炎の音と、張り詰めた感情を必死に堪えている呼吸の音と・・・何よりわずかに鼻を突く血の臭いにハウルは振り向いた。 身体はもう痛みを感じることなくヒトの姿に戻れるようだ。 彼は自分の背中から翼が消えていることに気付かぬ・・・否、構わぬまま入り口前の階段をいつも帰宅する時と同じように登る。 ・・・只いつもと異なるのは。 足取りが、ゆっくりと、重いこと。 いつもそこに居て迎えるはずの笑顔が、無いということ。 こんな、階段とはいえないような短い段数をこれだけ長く感じたことはなかった。 90歳の少女が城に来て以来、帰宅することが怖いと感じたことはなかった。 暖炉のカルシファーに、表情は無い。 ・・・背中を向けているのだ。 マルクルは俯いて床にうずくまり、自らのズボンの両端を握り締めたままだ。 ・・・震えている。 荒地の魔女は窓際の椅子に腰を掛けて空を見ている。 カルシファーと同様、ハウルの視線上では背中しか見えない。 背中がいつもよりも丸く、わずかに縫いかけの上着が見えた。 ・・・確かあれはソフィーが作っていたものだ。 ”おばあちゃんの服、少ないわ。とっておきのおしゃれ着作ってあげる”と花咲くような笑顔で魔女に提案し、確か二人で街まで布を調達に出かけたと聞いていた。 ――――きっと、それだろう。 そして。 マルクルが俯いている向こう側。 ハウルはゆっくりと歩を進め・・・”それ”を見た。 彼の表情もまた、長い前髪に隠されて確認できない。 けれどマルクルにも、”それ”を見て彼が息をわずかに呑んだことは判った。 「・・・ヒン・・・」 低い、ハウルの声がその名を呼ぶ。 いつもは彼の声には不機嫌そうに視線をやり、無理やり抱き上げようとするとがむしゃらに暴れるくせにソフィーがやってくると途端に態度が変わる。 けれどそんなヒンはこの城の住人にとって誰もが微笑ましい存在で。 憎めなくて、いつもは冴えないように見えて時々良い働きをしてのけた。 それなのに。 今は、あの独特な鳴き声一つ出さない。 冷たい床の上に、ただ横たわって・・・固く目を閉ざしたまま動かない。 その、身体の下には・・・紅い、染み。 ハウルはヒンの傍で膝を折り、体温を失った長い毛の身体をそっと抱き上げる。 指先にぬるりとした感覚を感じ眉を寄せた。 ・・・酷い、火傷の痕。 彼はゆっくりと立ち上がり、カルシファーの居る暖炉の前にある木椅子にクッションを置き、その上にヒンをそっと横たえた。 そして・・・しばらく目を伏せ。 ・・・顔を、上げる。 「・・・マルクル」 兄が弟に語りかけるような限りなく優しい声色に呼びかけられ、一寸小さなマルクルの肩が震えた。・・・唇を思い切り噛んでいるのがわかった。必死に感情を押さえ込んでいることすらも手に取るようにわかる。 ハウルはそっと彼の頭の上に手を乗せ、優しい微笑みで語り掛ける。 「何があったのか、説明はできる?」 その、質問に。 マルクルは少しの時間を置いて、2、3度小刻みに頷いた。 声を発するが、それはもはや嗚咽だ。 「・・・ソフィーが・・・、・・・っ、ソフィーの身体の中に、へ、変な黒いものが・・・入っ・・・」 「・・・うん」 「そ・・・した、ら・・・ソフィー・・・お、お城から・・・でようって・・・して・・・て」 「・・・・・・うん」 大粒の涙が、丸い瞳に溜められていく。 「ぼく・・・た、ち、・・・とめよう・・・とし、て・・・ぼく、と、か・・・ルシファー・・・と、おばあ・・・ちゃん、も・・・」 「・・・・・・・うん」 それが、とうとう抑えきれなくなって。 「・・・・・・・・・・・・ヒン、・・・・・も・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・うん」 零れ落ちて。 「で、でも・・・と、め・・・ら・・・れ、な・・・くて・・・」 「・・・うん」 「・・・ソフィー、が、・・・ドア、開けた・・・ら・・・」 歯を、食いしばって。 「おば、け、みたいな・・・鳥が・・・たく、さん、入ってき・・・て・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・さ、さり・・・まん、・・・も、いて・・・」 「―――――・・・・・・・・・」 震えて。 「そ、ふぃー・・・を、殺・・・・・す・・・って・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「だ・・・だけ、ど・・・っ、・・・っ・・・・ヒンが・・・・・!」 「・・・・・・・・・」 「ヒンが・・・、・・・ヒンが・・・ソフィー・・・かばっ・・・て・・・・!」 「・・・マルクル」 「ぼ、く・・・、っ・・・なに・・・もできなかっ・・・、・・・」 「マルクル・・・もういい」 「ごめんなさ・・・、ごめ・・んなさい・・・っ」 「いいんだ・・・」 「っ、・・・・・・・く・・・・やしいよぉ・・・・!!」 「・・・いいんだよ・・・ありがとう・・・」 泣き崩れて。 ・・・そんな彼の頭を撫でて、ハウルは微笑んだ。 ・・・やはり、前髪に瞳が隠れて・・・その表情は口元でしかわからないが・・・ 背中に、ぽそりとした声を感じて。 彼はゆっくりとそちらへ視線を移した。 背中を向けたカルシファーによるものだった。 「・・・オイラのせいなんだ・・・」 炎は、常にゆらめくものだ。 けれど・・・不思議とそれはマルクルと同様に、震えているようにすら見えた。 色も、薄く感じられる。 「・・・オイラの身体のなかに・・・前にサリマンの手先が持ってきたのぞき虫がまだ生きて入ってたんだ」 「・・・」 「ソフィーの呪いに引きずり出されたみたいだった。・・・オイラの中から抜けてった」 「・・・カルシファー」 まだ、表情をこちらへと見せない。 彼とは長い付き合いだが、ハウルは背中を向けられたのはこれが初めてだった。 「オイラのせいなんだ」 火の悪魔であるはずの彼が、こんなに弱々しい声を発したのもこれが初めてだった。 自分以外のことで、ここまで。 「・・・元はといえば、オイラのせいなんだ・・・オイラが、みんなと一緒にいたいなんて言ったから」 ここまで、自分を責めるなんて。 「・・・オイラ・・・もう・・・みんなと一緒にいられないよ・・・」 ここまで。 「・・・ごめんハウル・・・ごめんヒン・・・、・・・ごめん・・・ソフィー・・・」 「カルシファー」 ここまで・・・。 「・・・オイラは悪魔だから・・・ワルモノじゃなきゃいけないんだ・・・」 「カル」 ハウルは、あくまで優しかった。 マルクルにも、ヒンにも、カルシファーにも・・・きっと、荒地の魔女にも。 悲しみに打ちひしがれている全ての者へかける言葉は、限りなく強かった。 そして、今も。 「・・・自分の涙で死ぬ気かい?」 「・・・・・・・・・・」 いつもの、優しさを抱いて。 「炎でも、涙が出るんだね」 「・・・・・・・・・」 「・・・あんまり泣くと、消えちゃうよ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・泣いてないやい」 ソフィーがこの城に魔法をかけた、ぬくもりを抱いて。 「マルクル、大丈夫だよ。ヒンはまだ生きてる。・・・今から処方を記すからその通りに魔法薬を調合しなさい。・・・しばらくはカルシファーの近くに寝かせておいて」 「っ、・・・、・・・はい・・・!」 「カルシファー、ヒンの手助け・・・それから魔女のばあちゃん頼む。・・・相当落ち込んでるみたいだ。ありゃ何をしでかすかわからないぞ」 「オイラにできることなら、なんでもするよ」 いつものような、陽気な言葉遣いで。 「・・・僕はソフィーを迎えにいく」 愛しさにゆれた、海の瞳で。 「で、でも・・・ぼくたちもソフィーがどこにいったのか、・・・わからな・・・」 「・・・不思議だね・・・僕にはわかる」 悲しみすらも感じさせる、その優しさで。 「ソフィーが行ったわけじゃない。・・・呪いと虫がソフィーを動かしているだけだ。・・・まだ本当のソフィーは眠りについたままさ」 「・・・それじゃ・・・」 かすかに。 けれど、確実に確信を持って頷いた。 「そう・・・行き先は一つさ。・・・いい加減ソフィーに帰り道を教えてあげないと」 外は、またしても大雨だった。 以前ソフィーを叩きのめしたあの豪雨だ。 こんな天からの槍を受けて、あの時ソフィーは一体何を感じてたのだろう。 高熱に促され、苦痛に苛まれても彼女の歩を墓地へと向けたあの情熱は一体何によるものなのか・・・そして、どこにあるのか。 答えを知るモノは――――――――――”ジギタリス”。 |