ジギタリス
・・・カルシファーが、遠くで自分の名を呼び続けているのは分かっていた。 空は、彼の心の鏡なのだろうか。 それとも、何処かでさまよっているソフィーの想いを代弁しているのだろうか。 先ほど飛び立ったときには止んでいた雨は、突如その勢いを増した。 もはや、世界の全てが彼女にさえ思えてきた。 ハウルには、この豪雨が、ソフィーの泣き叫ぶ声にすら思えるのだ。 翼に大量の水が弾丸のように打ち付ける。 鳥は雨に弱いというが、ハウルもまた同様であった。 それも以前のように高速飛行はできない。身体をベールすることもできない。 ただの身体に、ただの翼。 力を失った堕天使そのものなのだ。 翼は、もはや飛ぶ事に限界を訴えている。 それよりも何よりも、ハウルの意識のほうが危うい。 長時間飛ぶことですら通常の魔法使いでは耐えられないほどの魔力消費を要することであるのに、いかんせん短時間の間に彼はそれ以外の魔力を使いすぎた。 あのサリマンを相手に、そして先ほど王宮の影の精鋭と呼ばれる”鼠”連中を相手に、彼はあまり得意としない呪術を駆使したのだ。 いずれも勝利を得たわけだが・・・正直、前者の方はあまり勝利したとはいえない状況である。あれらは完全にソフィーを・・・正確には、ソフィーに秘められた”魔力”を狙っているようだから――――――。 ・・・などと、苦痛の中思案していた刹那。 「・・・、・・・・・・・!」 突然強い眩暈に襲われバランスを崩す。 墜落とまではいかなかったが・・・このまま飛び続ければいずれは必ずそうなる。 できれば一秒でも早くソフィーの居場所へたどり着きたかったが・・・問題は居場所の風景は心では感じていても、実際の場所が地理的には不明だということだった。 ハウルは動く城の主である為、このあたりの地形には詳しい。 いざとなればカルシファーに任せればその場所は瞬時にして特定できるであろう・・・そうは思っていたのだが――――どんなに記憶を探ってもその地は未開。 悪魔のカルシファーですら知らぬ場所。 ・・・と、なれば。 残る可能性はたった一つ。 ―――――――”異世界”。 そして。 限界は突如としてやってきた。 彼が感じた限界は、これが二度目だ。 けれど、一度目はソフィーが身を呈して救ってくれた。 だからこそ孤独であったはずの自分は、暖かな”家庭”を得ることができた。 ソフィーがいたからこそ、心を失っても尚、心を失わぬまま、本来唯一の幸福とされるべき暖かなホームへと帰ることを許されてきたのだ。 ・・・けれど。 ソフィーは、もう助けてはくれない。 ソフィーは、もうハウルの手の届かないところに行ってしまった。 彼女を探してここまで来た。 子どもの頃から彼女だけを捜し求めてきた。 そして、やっと出逢って。 普段は恐ろしくてうろつけないキングズベリーの下町で彼女に声を掛けた。 自他共に認める臆病者の彼が、堂々と兵士を追い払った。 荒地の魔女に追われていたはずなのに、彼女に触れられたのが嬉しくて恐怖など忘れてしまっていた。・・・ソフィーの傍にいれば、大丈夫だった。 次に会ったとき、その姿は突如、90歳と変じていたけれど・・・彼はそれはそれで、構わなかった。他人から観れば信じられない光景であったかもしれない。 けれどハウルは、純粋に老婆となったソフィーをも心から愛した。 もしあのままソフィーが元の姿に戻らなかったとしても、結果は変わらない。 ソフィーがいてくれれば。 ソフィーが、そこにいれば。 それで、よかった。 それ以上、何も望まなかった。 それだけで、充分に幸せだった。 ・・・なのに。 雷鳴。 豪雨。 頭痛。 強風。 乱舞。 黒い ・・・羽。 何も、見えない。 身体が、重い。 けれど、痛くはない。 落ちた衝撃で麻痺しているのだろうか。 自分の羽が散っていくのが見えた。 浮上感が無くなり、重力に逆らえなかった。 聴力だけは、生きている。 ゴォゴォと鳴る冷たい風・・・けれどそれが次第に暖かなそよ風へと変じていく。 それは、気候が変わったのか。 それとも・・・別の次元へと変わったのか・・・そのいずれか。 ハウルは魔術に長けているためか、次元の香りに敏感だ。 例え視力が回復せずともそれだけで自らの居場所を大体は特定できる。 ・・・無論、”現実世界”であれば・・・の話であるが。 何故だろう。 この世界。 知らないけれど・・・知っているような気がする。 指先が、わずかに感覚を取り戻す。 第二関節を曲げると、爪のあたりに柔らかな湿った粒子を感じる。 それは肌に纏わり付き・・・やがて、優しい香りで嗅覚を呼び覚ます。 土の、香り。 嗅ぎなれた匂い。 「・・・・・・・、・・・っ・・・・・・」 金縛りのような状態だった。 意識ははっきりとしているのに、身体が命令通りに動いてはくれない。 悪魔との契約が切れて以降、ここまで魔力を消費した験しが無かったのだ。 ハウルはここで初めて、今の己の限界を皮肉にも知った。 余計に・・・悔しかった。 情けなくて、どうしようもなく自分を許せなかった。 今まで張り詰め続けてきた心の糸。 無理やり堪えさせていた、心の起伏。 それは、魔力の限界と共に爆発しても不思議では無かった。 感覚が全て正常であれば、もしかしたら泣き叫んでいたのかもしれない。 ・・・けれど、今は。 「・・・、・・・・・・・・・う・・・・・っ」 もがいて、呻き・・・瞼を大きく震わせながら。 海色の瞳が、蘇る。 「・・・、・・・・・・・く・・・っ・・・・、・・・・っ」 そう。 「・・・・・・・、・・・・」 ―――――泣いている、場合などではない。 この場所の、この不思議な感覚が・・・何故か今のハウルを支えていた。 中途半端に散った黒い翼は激痛の源にしかならず、魔力ももうほとんど残っていない。そんな状態で異世界に放り投げられた所では、己の望みを叶えるどころか無事に生還できるかどうかすらも危うい。 そして、一体誰が彼をこの世界へと呼び寄せたのか。 けれど・・・これだけは分かった。 己の望みは、ここに存在しているということだけは。 それを彼にいち早く知らせてくれたのは、まず嗅覚だった。 視力が回復する以前にも香りを感じた故に察することができたその”望み”。 それは、優しい土の香だけではない。 今のハウルと同じ香りが、この世界には充満しているのだ。 荒い呼吸と。 迸る激痛と。 消失した魔力を振り絞り。 ハウルは、ようやく上半身のみを起こす。 ・・・そして。 そこには、察した通りの風景が広がっていた。 ハウルが、当初はソフィーのために変わった花を捧げようとした・・・”それ”。 そのつもりだったはずの”それ”は、いつのまにかソフィーを守る手段へと変じた。 彼が独自に生み出した新しい呪術。 ”それ”が持つ言霊・・・そして秘めた魔力を引き出す秘術。 気候に敏感な、繊細な花。 可憐で、美しい花。 けれど、恐ろしい毒を持ち。 呪術として使用すれば、その花はあらゆるモノへと毒を為す。 キツネノテブクロ・・・正式名称を、”ジギタリス”。 ハウルが飛ばされた”ここ”は。 一面の、花畑。 それらすべてが・・・ジギタリス。 そして。 ハウルの視線上。 遥か、彼方。 毒の花に囲まれるようにして眠る・・・ 老婆の姿が、在った。 |