ジギタリス
右手の人差し指に、痛みを感じた。 だが今のハウルは放心状態であるため、全く気にならなかった。 ルビー色の指輪が大きく震えている。 光を放ち、彼の視線上を指し示す。 ・・・だが、やはりハウルの意識内にそれは入らない。 指輪に示されずとも、その先に何があるのかを無意識のうちに理解した。 視線上に紅い光が進入して初めてハウルは己の指輪がそれに反応を示し、自分に何かを必死に訴えていることを知る。 そう思った時にはもう、走り出していた。 足を取られる泥濘・・・広大なジギタリス畑。美しくも恐ろしい湿地帯を、彼は臆することもなくただ真っ直ぐと”それ”を目指して駆け出したのだ。 上半身を起き上がらせるだけでも酷い激痛が走ったというのに。 確信を持った今は、いつのまにか立ち上がり、こうして駆け抜けていた。 魔力も使わずにここまで全力疾走をしたのは初めてかもしれない。 何度か足を取られるが、転ぶことなく走り抜ける。 夜空の下。 欠けた月。 湿った空気。 強い花の香。 走れば走るほど、ハウルは世界を肌で感じた。 ようやくここが一体どこなのか、だんだんと理解できてきたのだ。 ここは異世界でも、只の異世界などではない。 どんなに術を駆使しても、ハウルには到底このような場所には来られない。 それ以上の、恐ろしい魔力を有していなければ。 上がる息と共に舞うジギタリスの花。 大きなスズランのようなそれは、毒を有しているとは思えないほどに可憐だった。 ・・・今のハウルの眼中に、それは存在していなかったけれども。 呼吸を荒げながら、ここで初めてハウルは一つの確信を言葉にした。 「指輪が反応してる・・・”黒い虫”にカルシファーの一部が付いていたんだ・・・!」 そう。 ソフィーの呪いに導かれ、カルシファーから抜け出ていったサリマンの呪い。 それは以前、皮肉にもソフィーの母がハウルに飲ませようとして置き去りにしていったのぞき虫がずっとカルシファーの中で機会をうかがっていた結果だった。 その覗き虫・・・”黒い虫”は、体内に入ればその人間を術者の意のままに操ることもできる。その身体能力をも自由にできてしまうのだ。 恐らくは、サリマンはそれを最初から狙い・・・”黒い虫”が反応する呪いをソフィーに掛けたのだろう。彼女の精神も、肉体も、意のままに操るために。 その動機はわからないが。 ハウルにとってはそのようなことはどうでもいい。 ・・・この、場所で。 彼女が。 ・・・ソフィーが。 眠っているなど・・・許されないことなのだ。 懸命に走った。 がむしゃらだった。 何かに追われるわけではない、追い求める為に走るのは初めてだった。 疲労感など全く無かった。 あったとしても、感じているほど余裕は無かった。 どんなに走っても走っても。 彼女に近づくことができない。 ・・・そして、それが決定的だった。 ここが、どこであるのか。 ハウルの導き出した答えが――――正解だった、ということの。 「ソフィー!!」 堪らなくなって、とうとうハウルは叫んだ。 走り続けたまま、荒い呼吸も気にせずに、はちきれそうな絶叫のように呼んだ。 何もない。 空と、月と、土と、ジギタリス。 ハウルと、・・・彼方に昏々と眠り続ける老婆のソフィー。 それ以外は、この世界には何も存在していない。 ・・・当たり前のことだった。 「・・・っ、・・・ソフィー!!」 どんなにどんなに走っても、彼女に近づけないのは。 「・・・、・・・・・・・ソフィー!!」 どんなにどんなに叫んでも、彼女に届かないのは。 「ソ・・・、・・・っ・・・!?」 目前に突如として無数の茎が絡み合い、遮断するように出現し。 その先にジギタリスの花が乱舞するように咲き誇り。 ハウルの行く手を阻むのは。 「・・・・っ、・・・、・・・・・・・っ、・・・ソフィー!!」 それは。 彼女が、その心を閉ざしてしまったから。 ・・・ここは。 ソフィーの、”心”の中。 ハウルは、サリマンがソフィーに掛けた呪いを知っていた。 先ほどキングズベリー王宮へ単身で乗り込み、呪いの礎を破壊する前に。 彼女は、言っていた。 そこで、彼女の目的は明らかになった。 ソフィーの、心を”壊す”こと。 「・・・・・」 ハウルは、奥歯を噛み。 指輪が震え続ける右手を・・・行く手を阻むジギタリスの花へと翳す。 それだけで花の魔力が彼の右の手のひらに毒を与え始めていることが分かる。 ・・・紅く、焼けていくのだ。 触れても居ないのに・・・彼の、手が。 本来のジギタリスは、このような花ではないはずだ。 むやみやたらにいじらなければ、毒が移ることなどないはず・・・その上、気にならないはずの茎には無数の鋭い棘。 ・・・サリマンの呪いの影響だろう。 この世界が壊れ始めている証拠だ。 ソフィーの心が壊れれば壊れるほど、この世界はおかしくなっていく。 ジギタリスがこのように凶暴な姿に突然変異してしまったのも、そのせい。 けれど。 激痛に耐え、ハウルは構わずに―――なんと。 素手で、ジギタリスの花々をぐしゃりと掴む。 同時に右手が炎に包まれる。 「・・・・・・・っ・・・・・」 魔力を失った彼には、その炎をどうすることもできない。 けれどもハウルは怯まなかった。 そのまま・・・左手で、今度は棘だらけの茎を掴む。 鮮血が、散った。 しかしやはりハウルはその両手を引くことはなかった。 そのまま左右へと押し広げていく。 鍵を掛けられたドアを、無理やりこじ開けるかのように。 その右手を焼かれても。 その左手を無数の針に貫かれ続けても。 どんなに傷を負い、どんなに血を流しても。 その道が・・・開くまで。 「・・・そんなに僕が怖いのかい・・・」 その棘が、消えるまで。 「・・・そんなに自分が嫌いかい・・・?」 その花が、静まるまで。 「・・・ごめん・・・」 この身体が、消えるまで。 「僕は・・・君を守れなかった」 この命が、尽きるまで。 「・・・でも」 ハウルは、わずかに微笑んで。 「君は僕を・・・”ここ”に入れてくれた」 そう。 ここに存在している生命は、ソフィーと、ジギタリス。 そして・・・赤の他人であるはずのハウル。 ハウルには、ソフィーにとってジギタリスという花が一体どういう存在であるのかは分からない。以前キツネノテブクロ、と名乗ってこの花を見せてもソフィーはものめずらしげにそれを見つめるだけで・・・到底、知っているようには見えなかった。 だからきっと・・・ソフィーの中でジギタリスというのは”名前”のみで心の中に存在していた花なのだろう。それが何故なのか、理由は分からないが。 けれど。 此処・・・ソフィーの壊れかけた”心”においてであっても。 彼女は・・・ハウルを受け入れた。 けれど、ジギタリスがそれを許さないのは。 サリマンの呪いによって、ソフィーの心が壊れてしまったから。 王宮の手によって、彼女の”魔力”らしきものが奪われてしまったから。 奪われてしまったことと、壊れてしまったことが悲しすぎて、全てを恐れてしまい、扉を閉ざしてしまったから。 ・・・ハウルの言葉に反応したのだろうか。 茎の棘が少しだけやわらかくなり、花の毒が徐々に消失されていく。 その度にハウルの、押し広げる速度が増し・・・あと少しで通り抜けられるほどまでに道はその姿を現し始めた。 だが、力は一切抜かない。 そのままの勢いで、痛みを堪えてハウルは彼方で眠るソフィーに囁いた。 ここはソフィーそのものであるから、例え叫ばずとも声は届くと今更察したからだ。 そう思えば・・・このジギタリスも彼女の一部なのだろう。 彼女の叫びが実体化し、彼に訴えているだけなのかもしれない。 愛しくすら、思える。 ハウルは、瞳を細めて優しく微笑んだ。 ・・・と、同時に・・・何かが頬を撫でるようにして伝っていったのを感じた。 ・・・涙だった。 「・・・僕は・・・こんなだから」 言葉を発するたびに想いがこみ上げる。 「魔法ぐらいしか、取り得がないけど」 頬を、濡らしていく。 「臆病で、我侭で、ソフィーを困らせてばっかりだけど」 花びらを、柔らかく感じる。 「魔力が無かったら、本当に役立たずの、ろくでなしだけど」 棘の痛みは、もう感じない。 「でも・・・!」 ジギタリスを、押し広げて。 その先に眠る彼女が・・・先ほどよりもすぐ傍に在る。 彼を阻み、苦しませたジギタリスは徐々に収縮し・・・やがて、土へと還る。 消滅する寸前に、名残のように白い花びらを舞い散らしながら。 障害がなくなり・・・ハウルは先へと歩を進める。 湿地はもはや湿地では無くなっていた。 しっかりと、足を踏み出せる土へと変じていたのだ。 彼の足を取るものは、もはやこの世界には存在していない。 ハウルは、走ることなく・・・ゆっくりと、けれども着実にソフィーへと歩き続ける。 その幼くすら思える美貌を、切なさに濡れた涙で濡らして。 「僕は・・・ずっと、”ここ”に居たい」 限りなく咲き誇る一面のジギタリスが、一輪ずつ、一輪ずつ・・・散っていく。 「僕は・・・ずっと、君と居たい」 茎が、その力を失い・・・その形を崩していく。 まるで砂の城が波に飲まれ、静かにその一生を終えるかのように。 「その為なら・・・僕は何でも君にあげる」 空の星が、消えて。 「僕の全てを・・・君にあげる」 月が、沈んで。 「いつか・・・この愛(気持ち)が」 ジギタリス、枯れて。 「報われるなら」 ・・・蹲(うずくま)り。 ハウルの傷だらけの指先が、老化したソフィーの頬にたどり着く。 瞳を固く閉ざしたまま、彼女は少しも反応を示さない。 只、昏々と・・・死んだように眠っているだけ。 それでもハウルは優しく微笑み、愛しげに彼女の前髪を掻き揚げ、わずかに覗いたその額に口付ける。そしてわずかな衝撃すらも与えぬように、羽で包み込むかのように両腕でソフィーを抱き起こし・・・そのまま強く、抱きしめる。 「・・・ソフィー・・・」 耳元に、唇を寄せてその名を囁いた。 毎朝彼女を起こす時、驚かせてしまわないようにいつも最初の第一声はこんな小さな声で呼びかけていた癖がしっかりこんな所で出てしまっている。 それが何故か、こんな状況でもハウルにとってはささやかな幸せに思えた。 「・・・もう、朝だよ」 そうだ。第二声は、いつもこれだった。 自分がいつも早朝に無茶を言って起こすものだから、一回や二回ではそう簡単に目覚めてはくれないのだ。 「・・・仕方ないな」 ハウルは、悪戯っぽく笑って言う。 ・・・切なさを、秘めたまま。 「・・・早く起きないと・・・キスするよ」 同時に。 世界が、消えた。 一面の。 暗闇。 |