ジギタリス




ソフィーはハウルと暮らし始めた後も、父親の遺した帽子屋を捨てることはしなかった。妹のレティーはそんな姉を”責任感が強いから”と言う理由で心配し、周囲の人間は父親に先立たれた哀れな娘、といったような目で見ることは変わりなかったが・・・確かにかつてのソフィーはそういった皆の解釈に反論できるような言葉も心も持ち合わせていなかった。

けれど、今は違う。
帽子を作っている自分が何故か好きなのだ。


彼女の作る帽子には決まった形のものはない。客の要望に合わせて彼女自身が考案して作るものだ。つまりは、世界でたった一つのものを、彼女は毎日せっせと生み出すことになる。



以前は恋人を連れて来店した客に対して妙な反感のような感情を抱いたものだが、今ではそんな負の感情どころか、そんな寄り添う二人を微笑ましい・・・とすら思えるようになった。


大体、今目の前で恋人に帽子を買ってもらっている貴婦人よりも、自分には一般の人間では到底想像もできないほどのどでかい贈り物をすんなりと捧げるような恋人がいるのだからもはや妙な嫉妬を感じる必要も無い。またその気もない。



考えてみればその帽子も、今朝ハウルと摘んだ花があしらわれている。


”これの花言葉を知ってるかい?「執着」なんだよ。これで一度手にとったら手放せなくなるぐらい気に入ってくれるに違いないよ”

・・・と言っていた彼を思い出して思わず苦笑する。
彼の予想通り、本当にそのとおりになったのだから。



「・・・まさか魔法かけたんじゃないでしょうね」



とは危惧しつつも、自分も黙ってそれを縫いこんだのだから共犯だろう。
そう思うと余計におかしくなって、ソフィーはくすくすと笑った。
けれど・・・その微笑みは窓の外から聞こえる汽笛と黒い煙によってまかれた。
思わず縫い針の手を止める。


「・・・」


何故か。
朝に感じた寂しさと言い様の無い悲しさのようなものが胸を襲った。
ツン、と鼻先が痛み、なぜかじわじわと瞳に涙までが押し寄せてきた。
はっと気付いて思わず顔を下げる。
すると、スカートにぱたぱたと水滴が落ちていくのが見える。

・・・なぜか。


いや。


理由は、分かっていた。
確かに、自分は今、帽子を作ることは好きだ。強制的にやらされているわけではない。自分で望んでやっていること。これにはハウルも手放しで賛成してくれた。
挙句の果てには協力までしてくれているのだから。
毎朝(とは言っても三日目だけれど)彼女を叩き起こし、花畑へと誘う。
本当に彼は、自分にはもったいないくらいに出来た恋人だとソフィーは思う。

けれど。

ソフィーが今でもここにいる理由は、それだけではないのだ。
自分が楽しいからやる、それだけであればどんなに幸福であったことか。
それでも、現実は容赦なく彼女の瞳を覆い、暗闇へと変じてしまう。


・・・駄目よ。
ドアの向こうにはお客さんがいるのに。


そう思い、ソフィーはごしごしと服の袖先で乱暴に瞳を何度も拭う。
そしてすぐ横にある鏡の前でにぃっと笑ってみせ・・・微笑へと変えた。


「・・・大丈夫よソフィー。あなたはやっていけるわ。・・・ひとりじゃないもの」


そう、言い聞かせて。
・・・けれど、せつなさと悲しみはソフィーをなぶりつづける。

悲しみに負けて、窓の向こうに見える空を眺めてぽそりと呟いた。


「・・・今日も来なかったな・・・お母さん・・・」













今日は、早めに店を閉じることにした。
気乗りしなかったことも否定できないが、それよりもどこか、身体がだるくて仕方がなかった。・・・どうやら、熱もあるらしい。
困ったことになった・・・と思いながら曇り空を恨めしそうに見上げる。

この店からハウルの動く城への入り口までは数歩で済む位置にある。
その為多少雨が降っても傘は必要がない。
だから悪天候など気にせずともよいのだが・・・。


店のドアを閉じ、鍵をかけ。
短い階段を下りようと振り向いた・・・その時に。


「・・・・・・・・!」


視線の先。
楽しげに笑う声。
小さなカフェの一角。


見間違えるはずがなかった。
ソフィーは考えるよりも駆け出していった。
ずっと待っていたその人が、今目の前、それも手の届く場所にいるのだから!


近づく気配。
その人と・・・自分の知らない、見たこともない男の人。


「おかあさ・・・」


やっと会えた!

元通りの姿になった自分を見せて、早く安心させてあげたいとソフィーは願っていた。それなのに、あれ以来母親はぱたりと彼女の前から姿を見せなくなってしまった。
何か事故にあったのでは、病気になったのでは・・・とずっと胸を痛めてきた。
再婚したと聞いていたから、幸せでいるはずだと信じて止まなかったが。

でも。

彼女は、あまりに無邪気すぎた。
あまりにも、ひとを信じすぎたのだ。

呼びかけようと、声を上げた・・・その瞬間。


「それにしても、君の娘さんは器量がいいね」


男の話し声が聞こえ、思わずソフィーは立ち止まり・・・背中を向ける。
・・・何故だろう。でも、今あの場にいってはいけないような気がした。
言いようのない恐怖を感じたのだ。

・・・話は続けられる。


「ええ、そうなの!なんていったってレティーはチェザーリの看板娘ですもの!」


どうしてだろう。
・・・心臓が、馬鹿みたいに痛い。


「案外、レティーの花婿も早く決めてやらないといけないなぁ」


・・・言わないで。


・・・心の中の、何かが彼女に暗示を掛けている。
その先は聞かないで今すぐその場を離れたほうがいいと。
でも、会いたかった母親がすぐ近くにいるというのに、逃げるなんてしたくなかった。



それが、間違いだったのだ。


母親が、笑顔で言った一言。



「ええ、そうよ。レティーは私の大事なたった一人の娘ですもの」









・・・雨が、降ってきた。
米粒を床に叩き落したような音がそこら中に広がる。
土の匂いがした。
それから、塩の味がした。


心臓が、さっきよりも痛かった。
そのせいか、呼吸がうまくできなくなってしまった。
肺が痙攣しているのがわかる。
わかるが、どうにもできないこともわかっていた。


あれから、わけもわからず走って逃げて。
ぬかるみに足を取られて何度か転んだが・・・このどしゃぶりだ。
心配しなくても泥は綺麗に洗い流されることだろう。


・・・子どもみたいに泣いた。
泣きながら当てもなく歩いた。
どこに向かっているのかもわからなくなってしまった。



・・・ずっと、止まなければいい。
このまま自分と一緒に、空も泣き続ければいい。



もう、なにもかも、わけがわからない。



わからなくなって。



目の前が、真っ白になった。








けれど、それも一瞬のことで。
めまいを感じて倒れこんでしまった先にあった物言わぬ石碑をみて。
ソフィーは自分の無意識の行動にぼんやりと納得した。

・・・もう、しばらくきていない。

自分しかくることがないのに。
大分、荒れてしまっている。


ソフィーは土砂降りの中、石碑の上にこびりついた枯れ葉をはらってやる。
そして、刻まれた文字を青白くなった指先でなぞってみる。
・・・少しだけあたたかい気持ちになって。


「・・・お父さん・・・」


この下で眠る、その人を呼ぶ。
呆然と・・・でも、だんだんと込み上げた感情の濁流が、一気に彼女を追い詰めた。
全てを打ち崩し、覆っていく。
黒い、濁流の流れが。


「・・・助けて、お父さん・・・」


石碑に、頬を寄せて。
ズキリと、胸と、頭と、・・・いや、全身が悲鳴を上げ顔をゆがめた。


「・・・痛い・・・」


嗚咽を、はいて。


「痛いよ・・・」








どしゃぶりが、何もかもを撃ち倒していく。
無数の水滴の弾丸に打ち抜かれつづけて。



ソフィーは、泣き叫んだ。