ジギタリス





ソフィーは足が竦んで立つ事もままならず、しばらく二人はその場に座り、暗闇の空間で待機することにした。・・・無事再会できたのは良かったが、ここが何処かは分からない。”心”の世界でソフィーに到達した瞬間、全てが闇に飲まれ気が付けばここにいた。


ハウルは、具体的にソフィーには何があったのかは伝えなかった。
伝えずとも大抵は察していると思っていたし、必要以上のことは伝えない方が彼女のためだと思ったからだ。無論のこと、聞かれたら正直に話す。それは決めていた。



異世界から帰還したであろうことは、ハウルの良く利く嗅覚で察することができた。
ここは一番身体になじむ空気の匂いがする。恐らくは現実のどこか。
けれど・・・少なくとも歓迎すべき感覚ではないことは確かだった。
今はまだ”いやな匂い”はしないが、時期にここにも来るのだろう。


・・・気配がする。


先ほどは異世界から帰還した際に発した何かの光でお互いを確認できるほどに視界はよかったのだが・・・それはやがて消え、今では混沌そのものだ。
音も聞こえない、風も吹かない。
何も感じられない世界であったが、何よりもお互いが在るだけで幸福に感じた。






ハウルが手探りでソフィーの、今では皺だらけの細い手を探り当て、重ねる。
同時に、ソフィーは肩をびくりと震わせた。

・・・そのまま手の甲から、指を滑らせ、腕から、肩へ。
首筋を辿り―――――頬を捕まえられた。


ソフィーにとって、暗闇で唯一の光はハウルだ。
そんな彼に触れられるのは唯一の救いであったが。



何故だろう。



自分は今、90歳の老婆なのに。
ここは今、一体何処で、どんな場所なのかすら分からない状況なのに。
暗闇で視界は零に等しく、危険である予感は確かに感じるのに。


それなのに。



どうして。



・・・こんなときに。











「・・・怖い?」




耳元に、彼の暖かな息遣いを突然感じる。
すぐ、間近。

どうにか平穏を装うと、何でもいいから強気な台詞を懸命に搾り出すが・・・頭は混乱していて思うように働かない。・・・老婆だからなのか。
いや、きっと18歳でも同じ状況になっていたに違いない。
下手をすれば、もっと酷い状態に陥ってしまったかもしれない。


けれど。


彼の声は泣きたいくらいに優しかった。




「・・・」




駄目よ。

今は、私の方がしっかりしなくちゃいけないんだわ。
だって私、おばあちゃんなんだもの。
どうしてだか分からないけど、私、おばあちゃんなんだもの。


・・・意味もなく、何度も何度もそう言い聞かせる。





どうして彼がここにいるのか分からない。
どうして自分がここにいるのか分からない。


でも。


自分の身に何かが起こったことは確かで。
ハウルはきっと、そんな自分を救うためにここにいるのだろう。
・・・恐らくは・・・自分を、探して。



臆病だったくせに。
弱虫のくせに。


・・・そんな、傷だらけになってまで。



触れられた頬から、わずかに血の臭いがしたためソフィーはすぐにそれを察した。








急に。








怖く、なった。














暗闇で、分からない。
・・・分からないから・・・彼の吐息を頼りにおぼつかない手を這わせる。
自分とは全くちがう、すべらかな、柔らかな肌。

こんな、老婆になった自分を追ってこんな所までやってきたのだ。
こんな、老婆になった自分でも変わらずに愛して。
こんな、老婆になった自分を――――――



「ソフィー」
「・・・っ」



こんな、いつも彼を追い詰めてばかりの自分を。



「泣かないで・・・」



こんな、何の役にも立てない自分を。



「自分を責めないで・・・」



こんな。



・・・こんな・・・。











悪戯っぽく。
それでも、優しくハウルは囁いて・・・肩を震わせ必死に感情を堪えている丸い背中に腕を回して―――――・・・抱き寄せた。

ソフィーは素直に、全てを彼にゆだねた。
強く、抱きしめられる。
体温を、分け合って。




「今の感じ・・・どう?」


ハウルがソフィーの髪を撫でながら囁く。
その声色には全くの影がなく、いつもの日常会話のような気軽さが在ったため、不思議とソフィーの精神状態もだんだんと落ち着きを取り戻していく。

・・・が。

何故だろう。
いつものような、調子がでない。
逆境に立ち向かう根性だけは在ると思っていたが・・・今はそんな自分はどこを探しても見当たらない。一番最悪な立場にある。

守られるだけの、女。

それだけには絶対になるまいと決めていたのに。
なってしまっているという、現実。


「・・・いつもの元気が出ないわね」


だんだんと、客観的に自分をみつめることができていく。
ソフィーは素直に、今の現状をハウルへと伝えた。
これが元々の自分の性格だとは思いたくはなかったからかもしれない。

・・・すると。

ハウルは笑みを交えながら言った。


「ああ・・・それはきっと、知ったかぶりの魔法使いの仕業だよ」
「・・・はぁ?」
「ソフィーの力を”魔力”だなんて決め付けてる”しったかぶり”さ」
「・・・私の、ちから?」
「そう。この世でたった一人、ソフィーにしかない素敵な力さ」
「・・・???」


意味が分からない。
ソフィーの頭の中は疑問符の大行進が開始されている。
幾度も幾度も首をかしげてハウルの言葉の意味を理解しようと努力はするが・・・当然のことながら、そう易々と分かってしまうような安易な内容ではなさそうだ。

すると、ソフィーはある事に気付く。
それは暗闇故に一時的に発展した嗅覚が教えてくれたものか。
何かと今回、匂いや香りは道しるべとなってくれている。

ソフィーはハウルの胸から身体を離し、手探りで・・・先ほど恐ろしいほどの血の香りに包まれた彼の腕を捜す。勿論、彼に痛みを与えてしまわないように優しく。



そして。



それに、ようやく気付いた。



「ハウル!あなた・・・傷が治ってるわ!」



久しぶりに歓びを含めたソフィーの元気な良く通る声を聞いたような気がした為か、ハウルは能天気に笑ってのびのびと返答した。


「あ。そうみたいだね」
「そうみたいだね、って・・・。すごいことでしょ?だって治っちゃってるのよ!」
「うん。・・・やっぱりすごいね」


この、暗闇の中で。
実際に唯一起こった奇跡のような気がしてソフィーは嬉しいようだ。
何よりもハウルの痛みが拭われていくというだけでも彼女は心底安堵した。
・・・だが、やはりハウルは能天気な返答を繰り返すばかり。

それに・・・語調に、笑みが含まれているような気すらした。
それもにこにこ笑いながら語っているような・・・あの感じ。


「自分で言わないの!・・・確かにあなたの魔法はすごいけれど・・・」
「すごいね」
「ちょっと。何他人事みたいに・・・」
「すごいよ、ソフィー」



・・・。




ほら。




また、無意識のうちにハウルはソフィーに難題をふっかける。
・・・いや、ふっかけているつもりはないのだろうけれども。





「・・・すごいって・・・なにが?」
「だから、ソフィーが」
「・・・どうして?」
「どうしてって・・・すごいから」
「だからなにが!」





・・・しかし。





「魔法使いって、精神と大きな繋がりがあってね」
「うんうん」
「僕も勿論例外じゃない。落ち込んでれば魔力は落ちるし、逆に元気なら魔力は上がる。・・・ここまでは、分かる?」
「分かるわ」





ソフィーは。





「実をいうと僕、ここにくるまでに魔力使いきっちゃってさ」
「え・・・!?・・・だ、大丈夫なの!?」
「大丈夫大丈夫。・・・今は、落ち着いてる。・・・いやそれどころか・・・っていけない。魔法の話だったね。・・・つまり、僕はここに来るまで元気がなかったわけさ」
「・・・どうして?」





全く、気付いていない。






「どうしてって・・・、ソフィーが居ないからに決まってるじゃないか」
「・・・・・・・・・・・・・」
「だからいつもより思うように行かなかった。呪術2回でガス欠さ」
「・・・・・・」





他人のことには、とことん敏感なくせに。





「だけど今はその逆さ。・・・すこぶる魔力の調子がいい」
「どうして?」
「・・・、・・・だーかーらー。・・・ソフィーが居るからに決まってるじゃないか」
「・・・・・・」




自分の変化に、疎いのだ。




「駄目で元々って感じで治癒魔法使ったんだ。こいつが一番魔力の消費が激しいからね。上手くいくわけないって思ってたんだけど・・・ソフィーと話してたら忘れちゃってたみたいだ。・・・うん・・・回復してる」
「・・・あなたねぇ、何自分の傷を他人事みたいに!」
「・・・その台詞、ソフィーだけには言われたくないなぁ」
「なんでよ」
「たまには我侭言ったり駄々こねるソフィーを見てみたい、僕」
「そんなのあなたで充分じゃない」
「・・・ソフィーがいじめる」



いつもの元気が出ないどころか、ハウルを圧倒するほどに元気ではないか。
先ほどの落ち込み様や繊細な態度はどこへやら。
それもこれも、もしかしたら逆に老化した故に起きる開き直り現象か。
はたまた、ソフィーならではの底力が予備電源として機能しはじめたのか。

ソフィーはハウルの肩に手をかけ、それを支えとして立ち上がろうとする。
それを察した彼もまた腰を上げ、そんな彼女へと自ら手を貸す。



「何処へ?」
「決まってるでしょう、帰るのよ」
「どうやって?」



そう問いつつも、彼もまた完全に立ち上がりソフィーの腕を優しく取り、己の肘へと絡ませる。・・・あの路地裏で出会った頃のような形にと落ち着く。
ソフィーにとっては、先ほどまで夢の世界で展開されていた現実である。
そして今、胸が高鳴っているのは夢ではなく実在する自分の心臓の音。



「自分の足で歩いて探すのよ」






そして。





その笑顔に反応し、鼓動を深く感じたのは・・・弱虫の魔法使い。








・・・そうだ。
そんな彼女が好きなのだ。


否。


どんな彼女も好きだけれど。







「それよりソフィー。随分元気になったじゃないか。・・・どうしてだい?」



歩き始めたソフィーに歩幅をあわせ、すぐ隣に寄り添うハウルが微笑みつつ問うた。今は非常時であるというのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
ソフィーが居て、自分が居て、こうして話をするだけで何故ここまで幸福なのか。



・・・などと思案しているうちに、ソフィーはハウルへと顔を向けて。
あっけらかんと言った。





「・・・ハウルがいてくれるからに決まってるじゃない」





暗闇の中の、眩しい笑顔。