ジギタリス
酷い気分だった。 頭がガンガンと、まるで脳の内側から思い切りトンカチか何かで叩かれているように痛い。おまけに喉がカラカラで、軽い脱水症状であることを察するに・・・昨夜何かあったのだろうか、という実にかしこい答えを導き出す。 しかし問題は全く別の所にある。 それは、彼女の記憶が昨日の夕方から今にかけてあやふやだということ。 いや・・・あやふや所の騒ぎではない。完全に夕方からの記憶が無い。 まさか、痴呆じゃないでしょうね・・・と。 ソフィーは笑えない冗談を心でつぶやき、乾いた笑いを一人で浮かべながら恐る恐る自分自身の両手を確認する。・・・どうやら老婆にはなっていない。 ・・・それだけで十分安心できた。これでまた90歳に戻ろうものなら、もうここにはいられなくなるような気がする。家を出たあの時とはわけが違う。・・・自分はもうれっきとしたハウルの恋人としてこの城にいるのだから。 そう考えると、彼はよく老婆の自分を受け入れてくれたものだ。 あの事件以降彼自身によって知った事実は、自分が時折もとの姿に戻っていたということ。それを聞いたときは、”ああ、だからか・・・”と半ば納得、もしくは少々残念な気持ちにさせられた。 もし、ありえないとは言っても彼が老婆のままの自分を好きになってくれていたとするのであれば、もはや彼女に怖いものなどは無い。自分の外見がどうなろうと、幸福であることには変わりないのだから。 でも。 でももしまた自分が90歳の老婆になってしまったとすれば。 ・・・ハウルは、どうするのだろうか。 ・・・と。 考えても仕方のないことを考えていると・・・ふと、自分の異変に一つだけ気づく。 体の調子が悪いということだけではない。 左手に重い感覚があった。 現在の彼女は考えが悪いほうへ悪いほうへと進んでいるため、その正体を確認することすら恐ろしくてならない。 そして。 彼女は、自分の左手を恐る恐ると確認し・・・。 そのとき。 彼女は、5秒ほど呼吸の意味を忘れた。 「・・・、・・・・っ、・・・・・・・・・・・・・」 言葉が、言葉にならない。 というか、言葉が見つからない。 「・・・、・・・・・・・・お、・・・・・・・・・・」 どうしてこういうことになっているのか。 いやむしろ、どうして自分はここの、それもこの部屋のベッドに寝ているのか。 「・・・、・・・・・・・落ち着かなきゃ・・・・・・・」 いつぞやかの、老婆になった瞬間の自分と同じ言葉を吐いているが、状況は把握しつつもその理由が分からず混乱状態にあるソフィーはそんな些細なことなどには気付かない・・・というか、どうでもよい。 もっと深刻な問題が彼女の目の前に突き刺さっているのだから。 「・・・・・・・・・。・・・・・・お、落ち着かなきゃ・・・・・・」 考えても考えても、わかるわけがない。 ・・・昨夜の記憶がまるっきり無いのだから考えなど当てになるはずもない。 わかってはいるのだが、今目の前にあることしか彼女には理解できない。 「・・・・・・・・・・・・・・落ち着かなきゃ・・・・・・・・・・」 これが落ち着いていられるか! ・・・そうは分かっていても・・・以下、略である。同じことの繰り返しだ。 ・・・左手が重い、と確認する前に。 彼女の目に入ってきたのは・・・ 「・・・、・・・ん・・・・・・・・」 入って、きたのは。 「・・・、・・・ん・・・?」 長い、金髪の。 「・・・朝・・・?」 青い瞳を持った。 「・・・・・・・ふぁ・・・、・・・眠い・・・夜更かしが過ぎたかな・・・」 寝起きで、かすれた声の。 美貌の、青年。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。 お。 ・・・・・・・・・落ち着かなきゃ。 自分が眠っているベッドの、そのまた同じベッドの中。 所謂、自分のすぐ隣・・・いやそれどころかおそらくは自分を抱きしめていたであろう腕の形。男性のわりには色白で、細い腕。そこらの女性よりも綺麗なのではないだろうかとすら疑ってしまうほどの・・・その、腕が。 どうして。 それも、剥き出しの状態で。 自分の、隣に。 いやそもそも、どうして自分はこの部屋に。 考えは、めぐりめぐって混乱の湖に落ちる。 それも、底なしの。 そして。 その美貌の青年は、気取ることもなく思わせぶりな態度もせず。 本当にいつものように、彼女と二人の時だけに見せる幼い素振りで無邪気に笑う。 彼女の顔を見て、それは余計に素直な笑顔で。 実に、嬉しそうに。 「・・・おはようソフィー」 全く、やましいことなんか一切ありません・・・といっているような表情。 いやむしろ、何もわかっていない笑顔だ。 と、いうことは・・・今彼女が想像しているような、ある意味”最悪の事態”には突入していないということなのか。 「・・・おはようハウル・・・」 動揺しつつも、とりあえずご挨拶。 すると彼はまた、にこりと笑みを深める。 身なりが長めの金髪だからか、いつもよりも大人びて見えるが言動がいつもどおりの幼いものであるためか・・・不思議な色香が彼に漂っていた。 それが余計に彼女を不安にさせる。 「・・・ねえ、ハウル・・・」 「ん?」 「・・・私・・・どうして・・・」 ここに?・・・と聞きたかったのだが。 彼女に呼ばれて上半身だけを起き上がらせた彼の、その素肌を見て驚愕する。 いや、丸裸というわけではない。なぜか上半身の白いシャツのボタンが全て全開になっていて彼の胸元をさらけ出しているのだ。 ・・・いや・・・それ以前にソフィーはそれどころではない彼の姿を目の当たりにしているわけだから今さらなのだが・・・あの時は老婆であったためか、大して動じなかった。 しかし今は18歳の乙女。 心も初心に立ち戻り、動じなかった強靭な心はとことん動じる敏感なものへ。 あの時動じなかった自分が今では信じられないほどだ。 「・・・?・・・ソフィー・・・?」 「ふぁっ!・・・は、はい!」 そんな彼女の気持ちも露知らず。 ハウルは小首をかしげてそんな彼女をきょとんと見つめる。 「苦しい?・・・どこか、痛い?」 「えっ」 「ごめん・・・半分は僕の責任だね。・・・やりすぎたかもしれない」 「は」 ・・・やりすぎた?・・・半分は僕の責任・・・。 意味が深そうな言葉ばかりが次々と飛び出してくる。 それもどうして彼はそんなに憂いを帯びた表情をしているのかが益々謎だ。 本気で一体、消えた記憶の中で自分と彼はこの部屋で何をしていたのか。 と、色々と考えをめぐらせているソフィーに構わず。 突然ハウルはガバリと起き上がり、満面の笑みを彼女の顔寸前まで近づけて子どものように言った。 「ね!出かけよう!」 「・・・は!?」 「デートしよう!」 「・・・今!?」 「そう!今すぐ」 そんな、突然言われても・・・ それよりも自分は今、昨夜から今にかけての記憶の確認を今すぐしたい。 それに突然予告もなく起きぬけに出かけたいとせがまれても、こちらは何の準備もしていないし、デートと言われても彼と並んで歩けるような自信は・・・ ・・・と。 やはり色々とソフィーは考えるのだが、そんな触れそうなほどに近づけられた、無邪気な恋人の、それも美貌の青年の微笑みを間近にねだられたら・・・。 だれが、嫌だと言えるのだろう。 ソフィーは、しぶしぶ頷いた。 ・・・しぶしぶ? いや、違う。 わくわくしている。 とても、どきどきとして、不思議なくらいに・・・そう、舞い上がっているのだ。 こんな気持ちは・・・ 彼と出会った、あの瞬間のような・・・ときめき。 |