立ち待ち
−3−





 一方。

 ソフィーは、自分の目の前に広がる黒い影に目を奪われていた。 


 「お嬢さん、その犬をどうするんだい?」


 突然聞こえてきた背後からの知らない声に、ピクリと身体が反応する。

 そして、困惑した表情を浮かべて見せた。 


 お嬢さんって………私のことだよね?


 人通りの無い裏路地で自分以外ありえないと分かってはいるのだが、とりあえず頭の中で確認してみる。


 しかし、いくら確認したところで結果は変わらない。

 ソフィーは仕方なく、その声に答えるべくヒンを抱いたままゆっくりと振り向いた。


 すると、その人物の立っている位置は必然的に逆行になるため、顔はよく見えずに。

 代わりに、「ある物」が目に飛び込んできた。

 
 途端、ソフィーは眉をひそめてみせる。

 
 ひそめて。一度ゆっくりと瞬きをしてから。

  
 「……どうするって、この子はもともと私の家族です」


 ソフィーの目に入ってきたものは―――――――「緑の軍服」。

 体格のいい、ソフィーと同い年位であろう年齢の軍人が、目の前に立っていたのだ。

 
 ソフィーは、ふぅ…と小さく溜息をついてから立ち上がる。

 続いてスカートの裾を直して、帽子をかぶりなおした。


 そして、ヒンを胸に抱いたまま、その人物に向き直る。


 視線が―――――――合う。


 ソフィーは、軍人にあまりいい印象を抱いてはいない。

 むしろ、はっきり言って嫌いである。


 もちろん軍人にだって、いい人はたくさんいるのだろう。

 それは分かっている。


 分かっているのだが、どうしても好意が持てないのだ。


 それに、ついこの間戦争は終結したのだ。

 それに伴って、街中からは軍服の兵隊は徐々に姿を消していったはずなのに。


 それなのに。

 愛国主義の強いこの国では、もちろん少数ではあるが派閥も出てきて。

 その者たちが、今もこうして軍服に身をまとい街中を大きな顔をして歩いている。


 「……………」

 
 あまり関わりたくもないし。

 もう時間も遅い。


 ソフィーは、その軍人との間に波風を立てぬようにと軽く会釈をしてから、その青年の横を通り過ぎようとした。


 すると。


 「おっと、待ちなよ」
 
 「きゃっ!」


 突然、ぐいっと右の肘をつかまれる。

 その反動で、危うくヒンを落としそうになってしまう。

 あわててソフィーはヒンの身体を自分の方へと引き寄せた。


 「な…っ何を」


 驚きと動揺とで、微かに声が揺らぐ。

 そんなソフィーの様子を見て、その軍人は軽く笑った。
 

 「その犬を、迷子にならない様に繋いで置いてやったんだ。礼くらい言ってもいいんじゃないかい?」 


 ――――――――これだから、軍人は。


 ソフィーは帽子の柄の部分から視線を覗かせ、軽くにらんだ。

 そして無言のまま、湧き上がってきた不満を胸中で並べ始める。

 
 ………何が、迷子にならないようによ。


 人通りの少ない、裏路地。

 夜になったら、人通りなんて無いに等しくなる。

 そんな場所に繋ぐなんて、普通なら絶対にしないはず。


 ましてや、あんなにギッチリと結ばれた短い綱。

 あんな綱の長さでは、ヒンだってろくに動くことも出来ずに、苦しい思いをしたに違いない。 


 そう。

 ソフィーは、この軍人が好意でヒンを金棒に繋いだとは到底思えなかったのだ。

 むしろ、自由を奪われて綱を解きたがっていたヒンを見て、楽しんでいたのではないだろうか。


 それはヒンの怯え方から見ても、明らかで。


 「離して下さい」


 ソフィーは掴まれたままの右手を自分の方へと引き寄せつつ、冷たく言い放った。

 そんなソフィーの様子に、軍人はからかう様な表情で薄笑いを浮かべて。


 「……………」


 次から次へと生まれる、不平。不満。


 それを頭の中に並べて。

 並べまくって。  


 そんなときに、軍人がソフィーの肩に触れようとしたものだから。

 結果。


 「戦争は終わったのよ。それなのに、まだ軍服を着て町をウロウロと大きい顔して歩かれたら迷惑だわ」


 やめておけばいいのに、自然と口から言葉が出てしまった。

 しかし、こればっかりは性格なのだから仕方ない。

 
 すると、ソフィーの肩に触れる寸前だった軍人の手はピタリと止まり。

 代わりに、明らかに軍人の顔つきが一瞬だけ変わったのをソフィーは見た。


 見て。ソフィーはふと考える。


 続いて、ヒンをもう一度しっかりと抱きなおした。

 一つ息を飲み込んで、新鮮な空気を吸いこむ。


 そして。


 「………失礼します。行くわよ、ヒン」


 何かが頭の中で警告したのか、ソフィーはくるりと踵を返して、裏路地の出口へと向かって走り出した。


 もちろん、あそこまで言われて「はい、そうですか」と納得するプライドの低い軍人はあまりいないだろう。

 というよりも、納得するような人なら、そもそもこんな事にはならなかったのだが。


 結局。


 「止まれ!」


 ソフィーの予想通り、背後から自分に呼びかけているだろう声と。

 追いかけてくる足音が聞こえてきたのだった。