時の呪文
−8−






 ハウルは、暖かな湯気を肌に感じつつ短く溜息をついた。


 ここは二階にある、少々広めに作られた風呂場である。

 そこの浴槽につかりながら、ハウルは壁に取り付けられている窓へと無意識に目を向けた。


 窓からは、雲ひとつ無い青空が見えて。

 カルシファーの機嫌がよくないのだろうか、あまり城の動くスピードが早くないことに気がつく。


 そのままハウルは、視線を横へと動かした。

 そこには、棚の収められた色々な壷やらガラス瓶やらがあって。
 

 目を、細める。


 ………まじないが滅茶苦茶になっている。


 そのことに、ハウルは苦笑いを浮かべて見せた。


 以前ハウルは、そのまじないを使って髪を染めたのだが、とんでもない色に染まってしまって。

 結果。今でもハウルは、あの時に元に戻ってしまった髪の色のままでいる。


 ハウルは、棚の隣にある鏡に目をやった。

 鏡越しに、自分の姿が映る。


 そこには、嘘偽りの無い本当の自分の髪の色があって。


 心臓を失う前の―――――――――漆黒の髪。


 ハウルは鏡から目を離し、静かに目を閉じて見せた。

 ふと脳裏に、色々な思いが浮かぶ。


 ハウルは、カルシファーと契約を結んでから、髪の色を頻繁に変えるようになった。

 以前から「生まれつき」というものが好きではなかったし、自分なりに美しくいたいという願望があったのも、一つの理由だ。


 しかし。髪を染めるきっかけとなったのは、確かにあの一件なのだ。


 カルシファーとの契約。

 同時に心臓を失った、自分。


 その日から、自分の中で確実に変わった何か。

 まるで心を持たない自分に、何かが一線を引くかのように。


 そして髪を染め、色々な名前を使うようになった。


 思いも感情も、あまり感じることのない日々。


 毎日が、なんとなく過ぎて。

 自分の思うように、自由に生きて。 


 ただ、張り合いのない毎日。

 
 以前の心を持っていた頃の自分は、どんなことを考えていたのだろう。

 どんな風に、気持ちを表していたのだろう。


 それすらも、忘れかけた自分がいて。 
  

 しかし。

 そんな心を持たない自分でも、ある一つの言葉だけは何故かしっかりと覚えていたのだ。
 

 あの日。

 星の(うみ)でカルシファーを両手に包み込んでいた自分に向かって、叫ばれた言葉。

 確かにそこに存在した、銀髪の少女。


 それが。


 「………ソフィー」


 小さく、呟く。


 風呂場であることも手伝ってか、その言葉は微かに反響して。

 空気に、溶け込む。


 今では、元に戻った髪の色。

 深い、吸い込まれそうなほどの漆黒。


 以前は、金髪じゃないと生きていけないとまで思っていたのに。

 今では、不思議と黒髪でも居心地の悪さを感じていない自分がいて。


 むしろ、それが普通になってきている。


 それはきっと、まだ心を持っていた頃の、昔の自分に戻ったかのような気持ちにさせるからだろうか。

 あの頃を、思い出させるからなのだろうか。


 そこまで考えて、ハウルは自嘲気味に笑って見せた。

 そして、薄っすらと目をあける。


 そう。

 こんな風に考えられるようになったのは、ソフィーに再会してから。

 そして、心臓を取り戻してから、再び自分の中で動きだした「何か」。


 ハウルはそれを、痛いくらいに感じていたのだ。


 そしてそれを実感することの出来た、いい例が――――――――ルーイの存在。


 はっきり言って、ソフィーとルーイが話していた時、ハウルは何とも言えない感情に襲われたのだ。


 ソフィーに向かって話しかけるルーイ。

 微笑む、ソフィー。


 あの時は、あくまで自分自身冷静さを保ってはいたけれど。

 それは、身体の中で、何かが締め付けるような錯覚を起こさせるほどのもので。 


 それが、心臓を持っていなかった、以前のハウルには全く感じることの出来なかった感情。

 「嫉妬」という、禍々しい感情。


 ハウルは、顔を微かにあげて天井を見つめた。

 髪から落ちた水滴が、浴槽に張られた水に音を立てて落ちる。


 ルーイの目的。

 
 ここへ訪ねてきた理由は、何となく想像はついている。

 きっと、カルシファーが以前持っていた、自分の心臓を狙ってのことだろう。


 しかし、もう心臓はカルシファーの手元には無いことは気がついているはず。

 その証拠に、暖炉を見た時のルーイの目が一瞬揺らいでいたことを、ハウルは見逃さなかった。


 そして、今現在ルーイ自身に起こっている現状。

 詳しいことまでは分からない。


 分からない、が。

 おそらくルーイは、再び自分のもとを訪ねてくるだろう。

 それだけは、確信が持てる。

 
 何故なら、ルーイは―――――――――


 と、その時。

 ハウルの耳に、誰かが階段を上る音が入ってきた。

 思わず思考を中断して、神経を耳に集中する。


 「……………」


 聞けば、結構な勢いで上ってきてるのだろう、あっという間に足音は2階まで近づいて。

 何故か―――――――――風呂場の入口の前まで来て止まる。


 その後、その人物は扉の前でウロウロしてるのだろう、足音がしては扉の前で止まっての繰り返し。

 そしてそれをしばらく繰り返して。


 一分。

 二分。

 三分。


 ……のところで、ハウルは小さく笑ってみせた。


 扉の向こう側にいる人物の様子や表情が、見なくてもだいたい想像できるのだ。

 そして、その人物が誰なのかなど分かりきっているから、なおさらに。
 

 ハウルはとりあえず、浴槽から出て指を軽く横に振る。

 すると、身体中の水分が一瞬にして蒸発して。


 そのまま適当に服を着こんでみせた。
 
 身なりが少々だらしない感じではあるが、特に構う様子もなく扉の前へ近づく。


 そして、一瞬考える。


 ここで突然扉を開けたら、その人物はきっと驚くだろう。

 それならば、と。


 「ソフィー?」


 その人物をなるべく驚かさない様にと考えて、まずは扉越しに声をかけたというのに。


 「えっ?!……きゃっ?!!」


 ズデンッッ!!
 

 ハウルの想像とは反して、何かが床に落ちるような音と。

 少女の小さな悲鳴が聞こえてきたのだった。

 
 「ソフィー?!」 


 そのことに、あわてて扉を開けたハウルの目の前には。

 階段の一番上の段で、何故か尻餅をつきながら真っ赤な顔をしたソフィーが居たのだった。