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           坑道出口と不動滝
出口の坑道(間歩)は出口左側に落ちる不動滝に
因んで滝間歩と名付け
られている。

         シュリンケージ
鉱脈を破砕し順次鉱石を井戸に掻き落としてゆくと、
このような空洞が出来る。

生野銀山の歴史:
大同2年(807年)に初めて銀が出たと伝えられているが、本格的な採掘
が始まったは天文12年(1542年)で、当時の但馬守護職・山名祐豊によると
云われている。永禄10年(1567年)には日本最大の鉱脈が見つかり、銀の
出ること土砂のごとしと云われた。
やがて織田信長、豊臣秀吉の直轄時代を経て慶長5年(1600年)徳川直轄
になり、佐渡金山、石見銀山とともに徳川幕府の財政を支え、八代将軍・吉宗
の時代には月産560kgの最盛期を迎えた。
明治元年(1868年)に日本初の官営鉱山となり一時皇室財産に移されたが、
明治29年に三菱合資会社に払下げられた。
閉山と規模: 昭和48年に閉山されたが、それまで掘り進んだ坑道は
総延長350km、深さは880mにも達し、採掘した鉱石の種類は70種にも
及んでいる。

  

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生野銀山

   生野銀山

日本の銀の歴史 
世界で金が発見されたのが紀元前6000-4000年頃で、銀はこれより
少し後らしい。
日本で銀の採掘が始まったのは平安時代で、対馬と摂津多田銀山と
云われている。
山上憶良(803年〜)の「白金も黄金も玉も何せんに 勝れる宝子に
しかめやも」の万葉歌の白金は銀のことで、この頃には銀が普及し
ていたことがわかる。
銀の精製:当時、日本では銀の精製技術が無かったため、朝鮮へ銀鉱石
を輸出して、精錬した銀を輸入していた。
1533年、朝鮮から灰吹法が伝わると、金・銀の生産量が急激に増加して、
安土・桃山時代が花開くことになった。

         亜鉛、鉛の鉱脈
生野銀山では銀以外の鉱物も多数産出しており、
ここでは亜鉛、鉛の鉱脈が示されている。

         坑道断面図
総延長350kmに及ぶ坑道は深い所は880mに達する。
           タヌキ掘り
支持枠なしで横掘りし、タヌキの巣穴に似た不規則な採掘の跡が作られることから名付けられた。
         帯状の鉱脈
鉱脈は
1枚の板のように地下から噴出していて、
中には長さが1km以上に達するものがある。
兵庫県朝来市生野町小野33-5 撮影:H25.8.12

          鉱山入口
入口の上部にあるプレートにはこの場所の
名前が記され「金香瀬坑」と書かれている。

    正門から鉱山入口迄の景色
庭園風にきれいに手入れがされている。

          生野銀山正門
  昔風の門構えで左方に土産物店がある

兵庫県の分水嶺にある生野銀山は、石見銀山、佐渡金銀山と並んで日本有数の銀山で、
大同2年(807年)に銀が見つかったと伝えられている。

播但自動車道)生野ICを出て312号線を和田山方面に向かい、1kmほどで右折して423号線に入り、銀山湖、丹波方面へ3kmほどで右折すれば直ぐに到着し、無料駐車場もある。
なお、生野ICは出口だけなので、帰りは北方面、南方面とも一つ先のICから入る。