月山・富田城址(がっさんとだ)
BACK
地図
富田城は16世紀初頭中国地方11カ国を領有し、当時最大の大名になった尼子氏の本城であった。

尼子の姓は京極高氏の孫・高久が近江尼子荘(滋賀県犬上郡)に居住し、尼子姓を名乗ったことに始まる。
1392年、高久の子・持久が出雲守護代を命じられ富田城(12世紀築城?)に入った。しかしやがて京極氏に背いたため富田城から追放されたが、京極氏の衰弱とともに富田城を奪回し持久、清定、経久の三代で因幡、伯耆、隠岐、出雲、石見、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸の11カ国を支配した。
経久没後、配下だった毛利氏が勢力を広げ、それに反比例して尼子氏は没落し、経久の三代後の義久の時の1566年に毛利氏に富田城を明け渡し、領主としての尼子氏は絶えた。

尼子氏系図 : 尼子高久、持久、清定、経久、政久、晴久、義久
富田城その後:関が原合戦後、毛利の代わりに浜松城から堀尾氏が入ったが、松江城を築いて移ったため1616年廃城。
島根県安来市広瀬町冨田  撮影:H17.10.16
花の壇から月山頂上を望む
月山中腹の広大な山中御殿
本丸へ登る七曲りの難所
三の丸登り口
二の丸跡
二の丸から本丸跡地を望む
花の壇にある山中鹿之助幸盛の銅像

尼子家随一の忠臣。
常に月山に登る月を拝んで有名な「我に七難八苦を与え賜え」と唱える鹿之助を表している。
富田落城後、遺族を探し出して尼子家再興に奔走。織田信長陣営に加わり、羽柴秀吉と共に中国攻めの最前線、西播磨の上月(こうづき)城に入ったが、三木城の別所長治が寝返って毛利と組んだため、信長の命令で秀吉は上月城を見捨てて三木城攻めに向い、孤立無援になった上月城はついに毛利に攻略され、鹿之助は捕らえられて毛利本国に移送される途中、彼の忠勇を恐れた吉川元春のため、備中松山城近くの阿井の渡し(高梁川)で惨殺された。
1578年34才。
山中鹿之助の小説
南條範夫著「出雲の鷹」 上下 文春文庫
リンク
出雲尼子氏

月山・富田城