地名など 飴なめ地蔵へ
 

  昔、湯田川村に清兵ヱという至極真面目な青年がおった。

 当時湯田川では年に二回馬市が立ち清兵ヱは南部の馬喰に頼まれて南部から湯田川までの馬引きを繰り返しちょった。五頭の馬を南部から夜通し引いて疲れきって糀山の山道を越えねばならねぇというので、清兵ヱは地蔵様の所で一息つくのがのいつもの習いじゃった。

 ある時のこと、清兵ヱがいつものように休んでおると「清兵ヱ、清兵ヱ・・・」と誰かがが呼ぶので、はっとして答えたと。  

「清兵ヱ。おまえは感心な若者だ、お前だって自分のお金で五頭の馬を馬市に出す様な一人前の馬喰になりたいだろう・・・今の気持ちを忘れず二十年我慢しなさい。私が引き受けてきっと一人前にしてやる・・・」とお地蔵様がぱっかり目を開いてカラカラカラと笑った。

その声で我に返るとうたた寝をしておったんだと。「不思議だ夢を見でしまった、よっぽど疲れでっだようだ、だどもおれさは地蔵様が付いでいでもらわえる。」

それから清兵ヱは一生懸命に働いたど。希望に燃えて働いたお金で一頭買っては馬市さ出し、二頭買っては馬市さ出し、十年目にはもう五頭を売りさばく一人前の馬喰になっとった。
清兵ヱの喜び様はそれはそれはもう大変で、早速地蔵様に何か上げたい、納めたい。心を砕いたがなっかなが見当がつかねぇ。

そこで和尚さんに相談してみよ、ということで井岡寺にあがっての、「和尚様、おれぇ塔の腰の地蔵様のおがげで二十年の物が十年で一丁前の馬喰さなられだんだ。なにが上げでぇと考え込んだどもさっぱりわがらね。何かええものおしぇでもらいで・・。」

和尚様はぽんと膝をたたいて「清兵ヱそれは近頃にないよい心がけじゃ。(このころから良い心がけの人は少なかったようで)そんならのう 鳥居を納めなさい。」
清兵ヱはびっくりして「ほっどけ様さぁ鳥居なんどあげで、ばぢあだんねぇがのー」と目を丸くして問返したと。
「面倒なことを考えないで私に任せて それでは白木の鳥居にして納めなさい」といわれ 清兵ヱも納得して早速素木の鳥居を納めたんだと。  

それからは、願えば必ず叶う地蔵様だという評判で素木の鳥居が後を絶たないということじゃ。

どなたか今度建てるのは白で・・・・ぜひ。

 

 

                             地名など 糀山地蔵へ
   

郷兵ヱの先祖の墓は塔の腰の先の古道というところにありました、観音の石塔がそれです。郷兵ヱは毎月の忌日には乗馬で墓参していたのですが、ある日いつものように朝参詣いたしました。

 ところが驚いたことに石像は地上に倒れ、墓石も地上に散乱してそのあたりには魚や鳥の食べ残しの骨などが散乱して見るも無惨な有様でしたので、郷兵ヱは心中とても怒りながら墓守を探し尋ねたところ、「昨夜三人の男達が湯田川(温泉)の帰り酒に酔い石塔をもてあそんでいるのを見て、大声で注意したのですが三人に捕まり、ひどいめにあって逃げてきました。皆刀を持ってはいたけれども商家の者ではないでしょうか」と答えましたので、「武士ならばこの墓を知らぬはずはない。さて困った目にあったものだ。先祖の墓を町人の手にけがされたことは悔しい限りだ。よし 見ておれ。」と、馬に乗って帰ってから家来を呼んで三つのわら人形を作らせて座につかせ自分は威儀を正し、生きる人に言うように、「汝等、商家の身にありながら武士の墓所を汚した罪は死に値する。只今先祖に替わり刑を加える 覚悟せよ。」と、刀を抜きわら人形を一刀両断しました。

郷ヱ門の目は充血し、元取りは切れ髪の毛は逆立ち形相すさまじく、側にいた家来はそれを見てしばらく失神する始末です。

 その時、白銀町の職人の倅並びに隣家の商人合わせて三人 にわかに倒れ、朦朧とした意識の中で、「我々知らないで名ある武士の墓所を汚してしまった。その罪を今日正され、大の武士が刀を振るって私を切ろうとしている。早くお詫びして下さい」と恐れおののいて言いました。

親や妻子は大いに驚いて、どこの墓かと尋ねたところ、塔の腰の先のあたりだとか、早速人を走らせどういう方のお墓でしょうかと近くの村人に聞いたところ、これは渡部郷兵ヱという方の墓所だと教えられました。 早速年寄り(町内会長)を通じて三人の親から郷兵ヱへ次第を伝えてお詫びをしました。

その時郷兵ヱは、「下手人を知らなかったのでわら人形を誅したが、今名を知らせる者がでたのは、ご先祖のおかげだ、さあ引き立てて参れ、この世に暇を取らせてやらん。」と非常に怒りましたので、詫びに来た人はその勢いに驚き恐れをなし早々に逃げ帰りました。 許してはもらえそうにないと伝えられると親たちは生きた心地もなく泣いておりました。

 そのころ郷兵ヱは総穏寺の住職とは囲碁友達で心やすく行き来する仲だと教えてくれる人がいまして、親たちは総穏寺に行き、手を合わせて拝むように事の次第を伝えました。

和尚も哀れに思い郷兵ヱに会い「彼らはもとよりご先祖の墓とは知っていてした事ではない、まして酒を飲んでのこと、何気なく出たいたずらでその行いは憎むべきだけれども死に値するほどではなかろう。あなたの様な絶世の剛勇の人があのようなつまらん輩幾百人手に掛けても大した功名とはなりますまい。しかも彼らの親兄弟の嘆きはどうしますか。仏の教えは殺さずを一番にします。彼らを許す事が先祖の霊に対して最大の供養ですよ。」と諄々と諭しましたので郷兵ヱも分からず屋ではないので和尚の言うことに従い、命は許してやろうと言いましたので和尚は喜び急ぎ帰って、病人の所に行きお前達の罪は許されたと伝えましたところ、たちまち病気は治ってしまったということです。

       {郷兵ヱ、享保一九年(1734年)五月二五日卒。帰天翁常真居士 墓総穏寺}

 
まぁお話としてはこれでいいのですが、先日「導き地蔵」と伝えられている井岡山内のお地蔵様の基壇の整備をしました。
詳細は別ページにありますがその地蔵尊に「渡辺新兵衛」と銘が刻んであります。 

 

 

        (びっきは庄内弁で「蛙」「疋」のこと)地名など びっきだへ
 
 

むがーす、井岡村の若妻だ(達)はお産のため命を落どす人が多がったど。医者も産婆もいね頃でそげだごどさ馴れっだ婆様さ手伝ってもらうぐれだっけど。

隣の姉もお産で死んだ、向のあねちゃも難産だった。おれも死にはしねぇだろがど落ち着かね気持ちでお産すっがら、益々難産さ引きずり込まれるんだど。

寺の及昌っていう和尚様はとってもこれどごしんぺ(心配)して、まんず自分は丈夫だ安産だっていう自信を持だしぇようどしたんだど。

五月もなればびっき田さは数知れねびっきがあづまってくんども、その前さ和尚様は若妻達どご連れてびっき田さ行って、「およそ自分ど同じ境遇で自分より弱え者どご助ければ、いずれその恩は自分さ戻ってくる、この世の中で一番難産だびっきどご安産さしぇるごどで おめ(前)がだは安産さならえんなだ・・・」ってしぇっきょ(説教)しながら自分でも膝まで泥さ浸かってびっき田どご掘ったんだど。

それがらは井岡の若妻さ難産はいなぐなって、そのうぢお産どごしんぺする人もいなぐなったっていうごどだ。

 
 なお及昌は当寺中興十世。1680年代のことかと思われます。


 

        (井岡の地名の由来?)地名など びっきだへ
 
 

井岡寺の不動様。

 仁王様で親しまれている、真言宗の大日山井岡寺は、淳和天皇の皇子であられた源楽上人様が開かれたお寺だそうです。
 鶴岡の稲生町を過ぎて田川街道を進んで来ますと、右手の前の方に杉の梢が半円のようにこんもりとした小高い山が見えてきます。
 この美しい山の山裾にある集落が井岡です。 昔 この井岡寺の境内を、毎晩毎晩松明を掲げて歩き まわる者がありました。
「こんなに毎晩 だれが なにをしているのだろう。」
とお寺の人々も村の人々も不思議に思って、いろいろしらべましたが、なにもわかりませんでした。
 こして毎晩火を持って歩き回る妖しい者はだれなのかわからないままに、日は二ヶ月、三ヶ月と過ぎてい きました。
 ある夜のことでした。 井岡寺のお小僧さんがおしっこに起きました。
 おしっこがすんで、お小僧さんがふと外を見ますると、あの妖しい松明の火が、ゆらゆらと境内を動きま わっていました。
「あいつめ・・・。」
お小僧さんは、すぐに部屋から山刀を持ちだして、外に出ました。
 お小僧さんが外に出ると、火を持っている人影が立ち止まってお小僧さんの方に向きなおりました。
 お小僧さんが近づくと、その人影が松明をにゅうっと突き出しました。
「この化け物め!」
お小僧さんは、山刀をふりあげて、「えいっ!」とその人影に斬りかかりました。
 すると、とのとたんに、火も人影も ぱっと消えてしまいました。
 翌朝、お小僧さんが顔を洗いに井戸端に行って水を汲みました。
 すると、どうでしょう。昨日まではあんなにきれいだった水が真っ赤になっていました。
 お小僧さんは、もう一度水をくみ上げました。水は 、前よりももっと真っ赤になっていました。
「いったいこれは・・どうしたんだろう・・・。」
お小僧さんは、このことをお寺のみんなに知らせました。
 井戸端に集まった人々は、赤い水を見て驚きましたが、
「とにかく、こんな水では使いものにならない。井戸さらいをしよう。」
と、井戸の水をすっかり汲み出しました。
 そうしたら・・・  井戸の底から不動明王様のお像が出てきたのでした 。
和尚様は、
「ああ、もったいないことだ。 お不動様がこの井戸の底から出してもらいたくて水を赤くしたのだろう。
 あの松明の火を掲げて歩いたのも、このお不動様にちがいあるまい・・。」
と言いました。
 そうして、和尚様は、この不動様のお像を、お寺に大切におまつりしたのでした。
 それからは、松明を持て歩きまわる人影も出ず。井戸の水もまた、もとのように澄んだきれいな水になったということです。
この井戸が井岡の地名の由来になっているともいわれます。
今でも渡り廊下から見える庭の隅にあります。

出典:太田鴨一著 http://myshonai.com/





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