※ 目次 ※
  @旧跡
  A地名など
  B諸墳墓
    後記


  一、名所旧跡

 

1.遠賀神社 (おがじんじゃ:写真祭礼の日)
祭礼の日         歴史詳細参照、諸表に祭神。

 言うまでもなく、井岡寺総鎮守です。明治期の神仏分離まで井岡寺と共に一山を構成していました。現在の本社の位置には開山堂、拝殿(旧仁王門)の位置には観音堂(本堂、本地堂とも)が建っていました。またこの場所には中世 塔が建っていたようです。

 

2.経塚 (きょうづか)

 神仏分離以前は 現在の直会殿の南側、杉林になっている一段高い地域一帯が神域となっており、本殿拝殿末社などが立ち並んでいた場所です。
 その中でも6坪ぐらいの四角い小丘がそうだと思われます。登り口と思われる所には拳大のごま石を敷き詰め、東寄りには「女人入らざる所」の長方形の石が立っていて、上には大きな石が転がっています。社が建っていたとも考えられますし、石はご神体だったのかも知れません。 この場所については寺記もなく、言い伝えも曖昧で、只神聖な場所とされていたようです。由来については様々な話題が生まれ、開山上人が護摩を焚いた場所だとか、及栄上人が戦乱で焼けた灰燼を納めたところだとか 或いは南北朝の南朝方のある皇子の陵であろうとか、古い本殿のたっていた場所だろうとか、また、経塚ではないかという人もいます。古記録の中に「経塚の東南中腹に土肥実平の墓あり」とあるのを見ると、かつての住職には経塚と確信していた人がいたようですので、発掘でもしないと判らないのですがとりあえず経塚としておきます。 

 

3.庭園、枝垂れ桜、井戸

 中興一世及栄上人が慶長年間(1600年頃)に造園したと伝えられています。
昔は桜の裏の方(今は神社敷地)に4坪ほどの大きな穴が二つ掘ってあり冬に雪を貯めておき、そこからの遣り水などもありましたが穴は昭和四十年代に埋めてしまいました。梅雨前や真夏などは時折池も水不足になってしまいます。しかし冬は時折カモも来ます。枝垂れ桜も造園時に植えられたものです。30年ほど前に樹齢170年と推定された方もいらっしゃいましたが、それ以前から近所の古老は「オレの小さかった頃からちっとも変わらない」といっていたこともあり、他所の有名な枝垂れ桜と比較しても環境による個体差はあるでしょうが樹齢200年とは考えられません。(最近出た本にも未だに170年で記載されています。樹木は歳をとらない?)数年前テレビ朝日の夜桜中継が行われご覧になった方も多いでしょう。及栄上人が京都円山から移植したと伝えられますが、醍醐の方が可能性が高いのではないかと思います。その頃はなんと言っても太閤さんの「醍醐の花見」で桜は殆ど醍醐に集められていましたから。こんなサイトもあります。(Citydo、井岡寺は紹介されていませんが。)円山や醍醐の桜とDNAの比較鑑定をしてみれば面白いでしょう。専門家のご意見をお待ちします。桜の画像へ
枝垂れ桜 井戸を不動の井といい庭園の北東にあります。学頭不動院の本尊(護摩堂本尊)が出現した所です。この像は寺伝では天台宗の高僧智証大師作耳切不動とあります。(なお三井寺には波切り不動と言う有名な画像がありますね)一時行方不明になっていましたが、あるころ夜な夜な鬼火が飛びこの井戸の中に没した、寺僧が不思議に思い井戸浚いをしたところこの像が出てきたといいます。台座、向背は宝暦十三年(1763年)脇侍は明和九年(1772年)の造像ですので、その頃の話かも知れません。(もっとも水没して痛んだ様子もなくそれ以前からずっとあったとしか思われませんが)また、この井戸は覗いてその人の影が映らなかったら近い内に命がつきるという俗信もあり、覗くのをためらう人もありました。
 庭の池が近いため池の水位と同じレベルで上下しますが、ここのところ降雪量も少なく先の雪の貯蔵穴も埋めてしまったためか池同様最近は水位が下がり渇水期には殆ど枯れてしまい影も映らない方が多いようです。井岡の地名の元となったともいいます。

 

4.飴なめ地蔵 (あめなめじぞう)

飴なめ地蔵 国道345号線通称湯田川街道 鶴岡行きのバス停新山口のあたりで、道路の東側、現在は赤い鳥居が建っています。飴が大好きでいつも口を真っ黒にしているお地蔵様です。
 昔は街道第一の名所といわれた飴なめ地蔵は三体あり、中央は中興一世の及栄が悪病退散、安産成就のために慶長末期建立したという説と、藤沢(鶴岡市)から室町時代 長禄年間(1456〜60年)如海が遷座させたという説があります。
 また、右の一体は明和七年(1770年)鶴岡の永井善次郎が建立、左の一体は寛政四年(1792年)同じく番田村の中村、菅原氏が建立したものです。これら地蔵尊は霊験あらたかで心より信仰すれば必ず所願成就するといわれています。昔は徒歩であったので、街道を歩く人は皆ここで休み、飴や菓子を供えたものです。とりわけ便利屋と呼ばれた湯田川温泉から買い物の代行に来る人たちは特にこの地蔵尊に親しみを覚え、何十年に一度のお堂の改築には率先して協力したと寺記にあります。勿論所有は井岡寺ですが、現在は町内会(塔和会)で地蔵盆の八月二十四日にお祭りしています。 地蔵尊畧縁記
 入り口は赤い鳥居ですが、近年までは白木の物が建っていました。地蔵尊に鳥居は変なので、塔の山山頂の愛宕権現に対する鳥居ではないかともいわれますが、これについては昔話があります。  飴なめ地蔵の話 (下の塔の山の写真の中央少し右寄りに鳥居見えます)

 

5.塔の山 (とうのやま)

塔の山 飴なめ地蔵の後ろのあたり一帯。
(右写真:昭和42年ごろ)
 井岡寺開山当時愛宕権現を勧請した場所とされ、その後延享二年(1745年)忠寄が祖先の菩提のため宝篋印塔を建立、入仏供養には十四世有栄が導師となった。翌年には制札を立て「宝塔内ニハ先祖代々御法号御座候間向矢弓引等又者石飛礫打又者昇等堅ク停止候也」と書かれた、とあります。塔の山と呼ばれるようになったのはそれからだという説もあります。いや、江戸時代以前にも何らかの塔が建っていたという説もあります。明治九年以降井岡寺は村の人のため草刈り場として、また薯、大根等を作らせたのでしたが、耕作権が生じ戦後農地解放の時には頂上塔の部分若干を除いて村の人の所有となってしまいました。
 昭和四年(1929年)九月二十一日午後一時〜二時半 朝香宮殿下がお成りになられ、陸軍大学校の演習を統監され、当時の大泉村村長三浦大助に「景色のよい高台故将来桜を植え、遊覧の場にする様」とのお言葉があり、村長は委細お誓い申し上げたため、十一月四日村一同で頂上を整地して桜を植え付けた。
 また、二等三角点(27.3m)が設置されていて、見晴らしも良く 戦争中は監視所が置かれ、昼夜を分かたず飛行機の襲撃監視が行われたそうです。
宝篋印塔 その後宝篋印塔は昭和三十九年(1964年)の新潟地震で相輪などが破損、傾きましたが、昭和四十二年鶴岡市の協力で復旧しました。
 しかし、昭和四十五年(1970年)には宅地造成のため山全部を切り崩しまっさらの平地に変貌しました。その時に宝篋印塔は心ない業者に調査もなくころげ落とされ塔本体は破損、納入品も一部紛失してしまいました。現在は、山の麓だった飴なめ地蔵(お地蔵様も3mほどセットバックしています。)の傍らに、やはり転げ落とされた文久元年(1861年)の愛宕大権現の石塔とともに移築されています。(写真:令和二年四月)宝篋印塔のその後まとめ、令和二年版
なお、近年すぐ北東に隣接する区域で高速道路等建設のため発掘が行われ、平安初期や鎌倉時代の住居跡、井岡からの延長の道路などが発見されています。この線と塔の山で交差するのが、金峰山〜元の下山王社を結ぶ線です、下山王社は中世までは現在の鶴岡中央公民館あたりにあったとされています。井岡の山と元下山王社を一辺とした正三角形を作るともう一つの頂点は上の山王社に当たります。さらに元下山王社と上山王社を辺として折り返すと井岡山は現在の下の山王社に当たります。(興味のある方はこちら
 朝日連峰から金峰山そして塔の山と鶴岡に一番近い高台として、今はやりの風水でいう龍脈の通ずるところ。朝香宮がおっしゃられたとおり景色も良く、史跡とまでしなくとも公園にでもしておいたなら、ピクニックでもサイクリングにもちょうどよく、百年、二百年先のために保存しておいても良かったのではないかと思われ残念です。

 

6.菅実秀閑居跡(稲生2−50あたり、右の写真は昭和46年頃)

青龍寺川(旧赤川)の河岸段丘上にあり畑作をしていた所です。
明治七年菅が酒田県権参事となった時にワッパ事件が起こりましたが 菅は責任を感じ使丁只一人と淋しい原中の小屋に閉居して読書に親しんだと謂われます。月山の眺めが御覧の通りで山名は臥牛山とも言い 菅は号を臥牛としました。
現在は跡形もなく住所表示も変わり住宅地に変貌しています。
その小屋付近は菅氏の所有畑地でその小屋は茶摘み桑摘みの休み場だったそうです。 その当時菅を慰めた李の木が畑の中に一本立っていました。




7.鳥居ヶ岡、塔の腰  (とりいがおか、とうのこし)

 鳥居ヶ岡は新山口から井岡方面への道路交差点付近。 
 名の通り鳥居が建っていた、鳥居は現在井岡正面に明治年間移設されている物。かつては最上義光が建てた物もあった。
右の写真は昭和初期の写真と思われます。 

追分け石 また、昔は参道も立派だったため湯田川街道と井岡寺参道を間違える人が後を絶たず、追い分け石を明和元年(1764年)藩にお伺いを立てて(右の写真の左端から10m程左のT字路)角地に建てた、その時の記録が残っています。鶴岡市内でも数少ない追い分け石の中でも由来の判っている貴重なもので勿論寺の管理のものなのですが、隣家が改築するときに(写真は移転前昭和63年)上の鳥居の写真左端のあたりの位置から飴なめ地蔵境内に移設されてしまい、残念ながら本来の意味をなさなくなりました。
 写真:街道側左面に「右 以乃おヽ寺江、左 たヽハミち。」右面に「庚申」と刻まれている。 椿の木も相当な太さでしたので 同時代に植えられたのかもしれません。

 馬塚は、現在の高専入り口手前東側。酒井氏の乗馬を葬った所ともされ、馬頭観音が祀られていて、摂社生国神社として小祠も営まれていました。明治四十三年(1910年)に馬頭観音など石仏は井岡寺境内に移設され生国神社は神社境内に遷座されています。鳥居ヶ丘の鳥居の移設もこのころかと思われます。
 戦前は西田川郡軍人分会の射撃演習場であり、ここから射的場の赤坂山に向かって実弾を撃ったものだそうです。

 航空写真を見ると正方形に見えます。塔の山ほどの高さではありませんがこんもりした山だった様です。

 

 

 

 

8.糀山と糀山地蔵  (こうじやま、こうじやまじぞう)

 現在国立高専の建つ場所で、麹山、河内山、とも書きます。隣村の赤坂などと共に南朝と何らかの関係があるのではないかという人もいますが、確証はありません。
 現在のように鶴岡湯田川線が高専の北側下を通るようになったのは宝永元年、(1704年)になってからでそれ以前は高専の正門あたりから山の南側を迂回して赤い鳥居をくぐり頂上の糀山地蔵へ登り、峰伝いに井岡の南の方びっき坂の地蔵清水へ抜けるようになっていました。
 渡部郷兵衛の事。
 当時その地蔵のあたりには渡部郷兵ヱ家の墓地があったと言います。「地蔵尊の裏には渡部新兵ヱと掘られてあり、近くにあった小墓石には一生林月居士と刻まれ、新兵ヱの縁者の墓石ではないかと思われる物があった」という言い伝えがありました。新兵ヱは正保の庄内大地図を作り、明暦元年(1655年)亡くなっています。また、郷兵ヱとその墓所には面白い話もあります。(荘内史料)糀山地蔵の話へ麹山地蔵
 この郷兵ヱの親が新兵ヱですがこれは実は別の地蔵尊の裏の文字と一致します。
更に、現存する明治初年の井岡山内の墓地調べに第四号渡部郷兵ヱ(絶家)とあります。講談にでもありそうなこの話では観音の石塔となっていますが、もしかすると編者がこちらの地蔵尊が観音と混同されたものか勘違いしたのかも知れません。・・・(第一、こんな大きい糀山地蔵さんを持てたかな?)

 その後、長らく落ち葉に埋もれていたこの地蔵尊を見つけ供養したのが安藤周慶で、同師が亡くなり井岡寺が無住になると加茂の八幡寺住職が来て供養を始め多くの信者の喜捨を得たそうです。
 今は、高専建設のため昭和三十八年(1963年)井岡寺境内、仁王門を入りすぐ左を見て右端、石段の隣に遷座され子安地蔵として尊崇されいつも新しいかわいい前掛けをしています。
 弘化二年(1845年)には庄内藩主忠発が 砲術の練習を督励し、糀山を適地と認め安政元年(1854年)秋、人夫4万を集め一千余両の大金を費やして地ならしをし、足並調練所と砲台を作りました。高専が出来るまではこぶし大の鉛玉が出てくることがあったといいます。戊申の役の際庄内藩が強かったのもここで行われた調練のおかげでした。その戊申の役には官軍が鶴岡に入る前、陣地が布かれ、井岡村に官軍の将兵が食料を漁り、おそれた村人は井岡寺の裏山の西すそ野「大西」に小屋を建て避難したということです。駐留したのが西郷直属の部隊だったためか 西郷は城下に入らずここから指示を出していたという説もあります。ことによると当寺に立ち寄ったという事もあったかもしれません。
 明治三十六年(1903年)から大林区署(営林署)は杉の苗圃をここに計画しましたが、希にみる痩せ地のため成功しませんでした。同四十年(1908年)になっって同山の払い下げを発表し井岡村は共同で競売に参加しましたが、僅差で鶴岡三井弥一郎の落札になり、更に大正五年(1916年)小京田小南善右ヱ門が買い取り、昭和三八年(1963年)には鶴岡市が国立高専の適地とし、裏の方の若干の村の所有する田と山林とともに買い取りました。
 今は一変してしまいましたが 東西に細長い丘陵であるのは現在でも理解できます。高専建設時は山頂部を少し削り南の方を盛り土したような具合で工事されました。

 

9.びっき田

 バス停岡山から200mほど湯田川方面へ行った道路沿いにあった小池。一本の桜の木があり、春になると無数のヒキガエルが産卵しに集まってきた所。流れ込む沢は昔六供のうがい水(阿伽水?)だったといわれ、今もこのあたりが岡山地区の六供という小字であることから、ある時代には井岡寺の六供が建っていたことも考えられます。
  「びっき田堀」という行事が行われています。  びっきだのお話
          

 

10.岡山  (おがやま)  岡山の地名

 井岡寺開山以前遠賀神社があったとされる場所。中世頃までは井岡と岡山は村続きだったようです。江戸初期頃までは山谷村と言いました。裏山の頂上あたりを伊羽手井といい。遠賀神社は最初ここに祀られていたといいます。あたり一帯縄文の遺跡で明治時代に山形県内では最初に学術的な発掘が行われ、その後も貴重な発見がされています。江戸時代から神鏃が降る所として知られていました。現在でも遠賀神社氏子です。

 

11.寺田  (てらだ)  寺田の地名

 寺田には井岡寺末寺の桜池山円蔵院があります。無檀、無住ですが、銅像阿弥陀如来(清涼寺式)薬師三尊、十二神将などが有名です。鎮守は六所神社で、岡山同様遠賀神社の氏子です。

 

 井岡、岡山、寺田、井(岡)岡(山)寺(田)洒落のようですが三つの村で井岡寺を支えていたのは確かでしょう。

 照井長柄 「井岡旧記」(磯前家随筆−二郡部類− 鶴岡市郷土資料館蔵)

 


二、地名など

TOPに戻る

井岡東より 

1.堂山 (どーやま:山の名称、上:東からの写真)

 井岡山、和田山とも言う、井岡寺・遠賀神社の堂塔が立ち並んでいたため。

 

2.堂坂 (どんざか:山内 写真鳥居奥)

 中心になる本地堂(現遠賀神社拝殿の所)への参道の坂、文久年間石段が出来ました。

 

3.中坂 今の山門(仁王門)のある所 (写真 新旧比べてみて下さい。私にとっては懐かしい写真です。)

石鳥居

4.仁王様 (におさま:山内 右小さい写真)

 現在の鳥居が建って居る場所、どん坂のすぐ下。明治初年まで仁王門(このページ一番上の写真。現在の神社拝殿)があったため。鳥居ヶ丘の鳥居をくぐって中の橋東大門を過ぎ突き当たり。井岡の正面にあたります。

 

5.東大門、馬冷やしこ、弁天堂。

 今の消防ポンプ小屋のあたりには弁天堂があり、広い濠がありました。湿度が高いためか時折建て替えられた様で最後の御堂は文久元年(1861年)でした。 今の消防ポンプ小屋のあたりには弁天堂があり、広い池もありました。神仏分離で厳島神社になりましたが、その後明治四一年(1908年)本社に合祀され、大正八年(1919年)埋め立てられて耕地となりましたが、農地解放で隣接の二家と消防施設所に分譲され現在に至ります。
 そばを流れる堰は馬耕していた頃は格好の馬を洗う場所(馬洗いこうど・馬ひやしこ)でした。昭和30年代私が子供の頃は小鮒やかじか釣りをした所です。
 また橋は東大門橋(だいばす、でんばし)といい、昔はこのあたりに東門があったのでしょう。
 

 

6.六供 (ろっく:山内)

 井岡寺の六供屋敷跡。墓地の下 現在杉林、書院北側で同じレベルの平坦地、大学坊、威徳院、不退坊、円光坊がありました。戦争中は耕作もされ防空壕も掘られていました。

 

7.釈迦院 (しゃかいん:山内)

 井岡山最北西端裾野、六供の続き。釈迦院がありました。

 

8.北大門 (きたぜぇむ)

 井岡白山線の井岡入り口、堰があり橋を北大門橋といいます。昔大門があったといわれ、武藤氏の尾浦城の頃は通行量も多かったそうです。大正年間橋の架け替えをしたときに大きな角材が出土したそうです。

 

まわたの桜9.まわた 回っ田

 地名は寺田へ行く道が東回りで大きく迂回していたため。
寺田に行く道の途中東側に「まわたの桜」(写真)があります。何年経っても大きくならない灌木状の木でかなり遅咲きですが 大丈夫かなと思った頃には咲きます。(浅学にして品種も不明ですのでどなたか御教授下さい。)その昔 湯田川街道沿いにあった門田家の杉の大木に宿る寺田の人々の悪疫を退散せしめたという神が寺田の社にお渡りの折りに休んだと言われる所。小さな祠と休石があったともいう。
またこのあたりはかつての赤川の氾濫原と言い長沼などという地名もあります。今でも埋もれ木(殆どがケヤキ)が出ることがあります。

 

10.塚の腰、(つかのこし)または岡田の森御興の岡尾の岡

 井岡山の北西寄りにぽっかり浮かんだようなちいさな丘。
 開山当時は塵屋姫命(しかやひめのみこと)、星を祀った所ともいいますが、その後墓地として使用された事もあったらしく、いくらかの墓碑が建っていたようです。
 また、ここは北西の風をまともに受け、しかも小高い平坦地であったので、稲干し場として村人が寺に願い出たという記録もあります。その後周囲から暫時掘り起こされて田地となりましたが、昭和二十七年(1952年)耕地整理をし、残存した石碑を井岡寺に移し、全部を掘り起こし田地とし現在は跡形もありません。
 塔の山もそうですが朝日連邦から山脈が北に延びて庄内平野に没する最後の丘陵でしたが、どちらも失われてしまいました。

 

11.西 または大西

 井岡山の西側一帯。裾野、田を含む。戊辰戦争の時は麹山に官軍の陣地ができたため村人が小屋を建て避難したといいます。また、中世の坊跡らしき場所が確認されています。 西門という地名もあります。

 

12.浪の町

 井岡山と岡山との中間、現在は田。かつては33余の僧坊などが建ち並んでいたといい、中世の遺跡が埋まっています。江戸時代までは遠賀神社の獅子舞の時は堂山の神社から南西に山越え(というほどでもない)して、浪の町を通り岡山の旧遠賀神社神社が建っていた伊羽手井麓まで練り歩いたとされます。

 

13.森の腰、または森の山、森の岡、首が岡

 村の南はずれの小丘、やはり開山当初白山権現を祀った所ともいいます。
 井岡寺で森供養(先祖供養)がなされたところで、その後一部に六供大学坊の墓地が作られ、今間二家、進藤家が使用していましたが、明治十年(1877年)法令で墓地の分散が禁じられ順次井岡寺に移されましたが、今間二家の名前で墓地として近年まで残っていたようです。

 

14.南大門

 南村はずれの十字路のあたりを南大門と呼んでいました。近年橋掛け替えの時、時代は不明ですが玉石の石積みを確認しました。往古はこちらの方が正門だったともいいます。
比企能員が落馬したのはこのあたり?

 

15.その他、

 地名と所有者の組合せで田圃を特定していて、また表記法もいろいろあるようです。

 かじふん威徳院分、かた威徳院、かだ威徳院分、なみの町威徳院分、なみの町学頭分、なみの町根木橋威徳院、根木橋威徳院分、根木橋大学坊、なみの町水目不退坊、にし円光坊、にし学頭分、にし観音、にし釈迦院、はけの下威徳院、ふけ円光坊分、ふけ観音領、ふけ聖分、堰の内家の前円光坊、屋上学頭分、家の前観音領、外用田観音院分、外用田中威徳院分、五月田円光坊、御衣田取仕分、御坪内杖林坊、御判田、三月田不退坊、山聖分、釈迦院下学頭分、釈迦院下観音領、釈迦院下釈迦院、釈迦院下杖林坊、釈迦院下大学坊、上能田不退坊分、森の腰威徳院、森の腰大学坊分、大門杖林坊、沢威徳院分、中の橋大学坊分、中田大学坊、塚の腰円光坊、東大門威徳院分、奈良岡釈迦院、二又円光坊、二又かものさむらい観音領、文山田不退坊、北大門学頭分、油田不退坊、等。(一部重複あるかもしれません) 

 他に現在井岡ではありませんが地名として六所岡(寺田?)、垂迹岡(岡山?)芳墨野(禅龍寺新田と白山の間)などが伝えられています。

 

16.開山当初、

 井岡の地は亀に例えられ、甲、首、尾、両手、両足を備えていて、各所に神がまつられたということです。

地名 図

 

 

首が岡(=森の腰?)= 白山権現

 

尾が岡= 山王権現

 

右前足=岡の山= 大神宮

 

右後足=白水が岡= 岡象姫命

 

左前足=塔の山= 愛宕権現

 

左後足=岡田の森 =塵屋姫命

 

甲羅=井の岡= 大山祇命

 

 

南側が頭の様なのですが諸説があり比定出来ずにいます。

 


 

三、諸墳墓

TOPに戻る

1. 開山上人の墓(現 神社敷地内)

 開山源楽上人は天長二年(825年)開山後832年に薨じられたとされますが、その墳墓は井岡山の一番高い位置、南寄りにあります。この墓石はいかにも新しく見えます。建てた年月も記してありません。しかし周辺には五輪の塔の壊れたのもいくつかあり、建て替えられたものかも知れません。また建物の礎石もあり、明治初年まではお堂があったといわれ、堂守の墓といわれるものも近くに散在しています。

 

比企能員2. 比企能員の供養塔(現 神社敷地畑内 写真)

 当山西寄りの中腹畑地に建っている。双貫禅定門と彫ってあると寺記にあります。また桐の紋もかすかに伺えます。位牌も寺に残されており、彫られている文字は未確認ですがおそらく同文と思われます。位牌はいわゆる雲形位牌で、室町から江戸初期の形態です。鶏肋篇という江戸時代の文書で天和年中領内調に「井岡村井岡寺、比企藤四郎能員の墓所之移」とあるのが怪しい。 

 

3. 土肥実平の墓(現 神社敷地内)

 南側斜面にある。徳一禅定門とあるらしいのですが判読不可。羽黒山黄金堂建築を奉行した鎌倉武士。言い伝えもなくなぜここにあるのかは不明です。比企の位牌と同様のものが昭和初期にはあったらしい。

 

4. 寺僧墓地

 書院の北側墓地への通路をのぼり左に折れると中興一世及栄から山主住職や、末寺住職等ずらりと並んでいます。すでに判読できないものや、記録にない僧のもありそれぞれ歴史を感じさせる墓です。

寺僧墓地 

5. 石原七郎右ヱ門(二代目)の墓(写真、奥は寺僧墓地)

 なぜか歴代住職の墓の中央正面に建っている。2mあまり台座を含めると4mほどの観音像。神仏分離以前は観音堂前或いは門前にあった可能性もあります。
 寛永八年忠勝に組頭として百五十石で仕える、同一五年家督を嗣ぎ八百五十石、寛文九年一月一四日(1669年)歿。石原氏は当寺には当主しか葬らなかったようです。なお妻水野氏の墓は酒田浄福寺にあり同様の観音像です。

 

6. 大泉大夫棠蔭竹内君之墓  竹内八郎右ヱ門

 諱は茂昆、字は子明、号は棠蔭。 寛保二年用人、宝暦四年中老、同八年病のため辞す、十二年全快のため再度中老八百石。明和元年家老、千百石。江戸宋学者稲葉迂斎に学ぶ。加賀山桃李とは特に深い親交があった。性温厚で思いやりが深く名大夫の称がある。江戸で病が悪くなった時領内の人は神仏に快癒を願うものが多かったといいます。明和七年六月十五日(1770年)四十九才で歿

 

7. 桃李加賀山君墓  加賀山衛士

 諱は寛猛、字は李和、号は桃李。 加賀山平助の四男。太宰春台に学び松崎観海と交わった。謹直篤行の人で宝暦三年松山酒井山城守忠起の伝官、同七年忠徳 の側用人、寺社奉行、番頭、禄三百石。妻をめとらず子もなし。詩集に「餐露桜集」。門人希望者が多かったが皆断る。安永七年七月二十九日、(1778年)六十五才で歿。

 

8. 静園石原府君墓  石原伊右ヱ門

 諱は希哲、字は公明、号は東郭または静園。 初め七十郎と呼ぶ。寛延元年忠温の伝官。荻生徂来の門人。この墓にお参りの折り両土屋氏の決闘に立ち会った家老、同名の伊右ヱ門は子。安永五年四月二十六日(1776年)、七十四才で歿。

 

9. 故大夫南楼竹内君墓  竹内八郎右ヱ門

 諱は茂樹、字は泊封、号は南楼。 前記八郎右ヱ門の子、安永四年中老。天明元年城代、文化二年家老、千百石。寛政以降勢望頗る盛んで白井矢太夫と共に放逸派の首魁で、恭敬派の水野内蔵丞と軋轢が多く、文化八年失脚。文化十年二月十五日(1813年)六十七才で歿

 

10. 故大夫東月白井君之墓  白井矢大夫

 諱は重行、字は子徳、号は東月。 加賀山桃里に学び後江戸で松崎観海に学ぶ。忠徳の代に大目付郡代を勤め文化四年小姓頭。致道館を興し同五年中老。同八年恭敬派のために失脚。文化九年六月二十四日(1812年)、六十才で歿。なお左は妻の墓で、水野勘兵ヱ桃源の女。

 

11. 季執白井府君墓  白井惣太郎(惣六)

 諱は重固、字は季執、号は蔵六庵。 矢大夫の弟で宗家を嗣いだ。文化二年致道館学監兼司書、同四年郡代。漢学の他和歌に長じ「鏡の塵」を著し歌集に「かくも草」がある。同八年恭敬派のために失脚。天保四年五月三日(1833年)歿。

 

12. 太冲白井君之墓 

 諱は重思、号楓園。 惣六の弟。文化六年兄の跡を家督、四百五十石番頭。天保四年用人。弘化三年徒支配。楷書に長ず。嘉永四年九月十日(1851年)、六十七才で歿。

 

13. 鳥嶽重田君之墓  重田道樹

 諱は茂道、字は子績 号は鳥嶽。 道達の子藩医。寛政十一年侍臣、書を田中蘭斎に学び、致道館扁額等多く残る。文化二年致道館助教兼司業。文化八年一月七日(1811年)、六十才で歿。

 

14. 庄内大夫菅先生之墓 菅秀三郎 後、善太ヱ門。

 諱は実秀、字は子発、号は臥牛。 明治二年中老、同年大泉藩権大参事、四年酒田県権大参事。西郷隆盛と親交があり幕末から明治年間に活躍。明治三十六年二月十七日(1903年)七十七才で歿。

 

15. 富田利謄君之墓  富田善四郎

 諱は利謄。 忠篤の近習。明治三年加藤元弥等と共に上京、外国語学校で英、独語を学ぶ。学資は致道館費より支出。後開成学校に入り、副総理浜尾新の引き立てにより勉学。明治三六年十二月二十九日(1903年)、五十四才で歿。

 

16. 誠信細井君之墓  細井猷蔵

 諱は旧服、字は子式、誠信は謚。 忠篤時代の学者。明治四十五年一月七日(1912年)、六十六才で歿。 

 

17. 三好森兵ヱ君之墓 

 諱は廉、字は善卿、号は蜻州。 致道館に学び詩文に長ずる。明治二十七年以降は南御殿(忠怒婦人瑛昌院の住宅)在勤。大正五年2月12日(1916年)七十四才で歿。

 

18. 庄司司農春山安均墓  春山半内

 諱は安均。 郡代。明治三十八年十二月四日(1905年)、八十四才で歿。
 隣は子春山熊八の墓。諱は安勧。第六十七銀行頭取、大正十一年三月七日(1922年)、七十一才で歿。

 

19. 赤沢源也之墓 

 諱は経言、字は白圭。 先祖は旗本、明暦三年より庄内藩に仕える。七代源兵ヱが故あって蟄居、弟源七が跡を継いだが早世、源兵ヱの男源也が家督。安政五年酒井繁之丞付となり、後新徴組取扱を勤め、明治七年酒田県属。「南州遺訓」編者。昭和二年四月三日(1927年)、八十九才で歿。

墓地 図

 

20.種徳渡部君之墓 渡部茂平。諱は帰、字は種徳。侍医及び侍読。寛政三年歿。

21.茘庵重田君之墓 重田道達。諱は範模、字は君倣、号は茘庵。藩医。寛政三年歿。

22.子済犬塚君之墓 犬塚男右ヱ門。諱は永吉、松崎観海に学ぶ。天明元年歿。

23.才老白井君之墓 白井久右ヱ門。諱は茂貞、字は才老。白井矢大夫の父。

24.子懐三矢君墓 三矢伊兵ヱ。諱は安恵、字は子懐、号東嶺。文化元年歿。

25.加藤景重君之墓 加藤宅馬。諱は景重、字は子遠、号は丹風。

26.故騎将元礼水野君墓 水野元礼。諱は重威、元朗の曾孫で重棟の子。文化六年歿。

27.謙光院義山方正居士 菅宗蔵 諱は基、字は孝伯、号は五老。致道館司業。文政二年歿。

28.渡部已之留之墓 渡部恒右ヱ門。前記20渡部茂平の子。文久元年歿。      

29.曹源院一済浄秀居士 船戸意晋。医者。明治六年歿。

30.南山竹内君墓 竹内右膳。諱は茂祐、号は南山。明治四十一年歿。

31.中村一政君之墓 中村文次郎。諱が一政。酒田山居倉庫長。明治四十五年歿。

32.北溟三矢君之墓 三矢籐太郎。諱は正元。大正十年歿。

 

 このように放逸派の儒学者が多いのですが、かつては儒者の葬送儀礼などは至って簡単なもので、仏教徒の感覚とはかなり違っていました。そのために「儒者捨て場」などといわれたこともあったようです。立派な墓石で子孫の方もいらっしゃるのでしょうがお参りされる方も少なく無縁仏に近い状態のものもあるのが残念です。
 明治以降は菅実秀の弟子筋にあたる著名人の墓も多く見受けられます。
 なお、坂本守正氏の「(金峰山にある)えい琴碑について」http://www.guqin.jp/の中に白井氏、加賀山氏、菅氏など儒者の記事が見えます。

  「掃苔帳」の中の/各藩人物/庄内藩にもここ以上に丁寧に紹介されていますので、お勧めします。

 7.加賀山寛猛 かがやまかんもう 〜1787 江戸時代中期の庄内藩儒

13.重田道樹 しげたどうじゅ 〜1811 江戸時代中期の庄内藩医

21.重田道達 しげたどうたつ 〜1791 江戸時代中期の庄内藩医

11.白井重固 しらいじゅうこ 〜1833 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、致道館司業

10.白井矢太夫 しらいやだゆう 〜1812 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設

27.菅 基 すげもとき 〜1819 江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人

30.竹内右膳 たけのうちうぜん 〜1908 幕末の庄内藩士、新徴組頭

6.竹内八郎右衛門 たけのうちはちろうえもん 〜1770 江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、茂昆。寛政改革を断行

9.竹内八郎右衛門 たけのうちはちろうえもん 〜1813 江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、茂樹。寛政改革を断行

 竹内八郎右衛門 たけのうちはちろうえもん 〜1830 江戸時代後期の庄内藩中老、茂林。土屋両義士の仇討に立ち会う

 竹内八郎右衛門 たけのうちはちろうえもん 〜1844 江戸時代後期の庄内藩中老、茂正。印旛沼疎水工事総奉行

15.富田善四郎 とみたぜんしろう 〜1903 幕末の庄内藩士、維新後酒井忠宝家職

17.三好森兵衛 みよしもりべえ 〜1916 幕末の庄内藩士、維新後戸長

20.渡部種徳 わたなべしゅとく 〜1782 江戸時代中期の庄内藩士、武芸家

 また、歴史詳細にも書き込んでありますが、山内には江戸期以前の墓はなく比較的に新しい江戸期以降の墓のみあります。これは山内は聖地であり墓地は少し離れた滅罪専門の寺(末寺、隠居寺であった東昌寺など)や他所(例えば塚ノ越、森の腰、或いは糀山など)を墓所としたのではないかと想像されます。

 
33. 覚法院青川道心居士 小野丑治郎
 屋号与兵ヱ、号は青川。 青龍寺生まれ。大泉村会議員、農民俳人として活躍。当山檀徒総代を永年勤めこのHPの底本は彼に負うところが大きい(多謝)。参道の坂を上って右側に句碑があります。「夏目高鍬を洗えば近より来」 また書院に句のがあります。昭和四十六年五月十二日没、82才。

 

34. 無縁仏

 墓地へ登り通路を右に曲がるとあります。元禄三(1690)年の阿弥陀如来の石像。(文化財参照)。 観世音菩薩の文字が彫ってある正徳五(1715)年の石塔等。他に墓地入り口を見ていてくださる享保三(1718)年の曰くありげな石地蔵があります。墓地の結界用に転用されたものでしょう。

35. 番外 得生院三誉是心居士  酒井七左衛門
 寺僧墓地の中にある。正徳二壬申五月廾七日 最□(不明)とある。何方か不明です。ご存じの方いらっしゃいませんか?



最後にまた引用ですが荘内日報社のサイトの紹介です。 荘内日報社 郷土の先人・先覚のページより。

加藤 省一郎 かとうせいいちろう 明治45−昭和42年 致道博物館の“テーマ”築く

堀 三悌 ほりさんてい 明治21−昭和40年 日本の馬博士

吉住 留五郎 明治44−昭和23 インドネシアの独立に命捧げる

三矢 重松 明治4−大正12年 希代の国学者


後記                              

 藤沢周平氏の小説にも当寺らしきものが登場します。
「紅の記憶」(門前に案内板)或いは「三谷清左衛門残日録」にも墓参する場面、取材で訪れ三矢氏等の墓を見て想うところがあったのではないでしょうか。また放逸派と恭敬派の派閥騒動も「残日録」等の題材になっています。他に、「又蔵の火」などにも井岡が出てきます。

TOPに戻る

end of document