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@  自己自身の放棄と自己の歴史化

         〜 自分から離れる

     *自分自身を明るみにもたらす

      *自らを支配する。己自身の欲望の奴隷になってはならない。

      *自分が絵の中にいるかどうか

自分から離れる。進化し、目覚めるポイントとなる為には 自分から離れると言う事です、イメージや知識にとらわれない生と死の心配が無くなる魂の創造活動に気づく、過去、現在、未来の区別を取り払うことができる。

超視力を持ち、ビジュアル面で、能力が開放される、ビジュアルだけでなく、物質や存在の創造が出きる(聖)

直接の<いま>の感覚以外の過去=現在=未来の因果的連鎖のうえにたった<われ>の自己放棄が目標とされる。

自己を歴史化する

時間の流れを絶つ緊張、別種の仕方で、時間をいきなければならない。

性について、いささかなりと ポーズをとらないなどと言う事は あり得な

いのだ。

既成の秩序に対していると言う意識

体制破壊的

悪を祓い、未来を呼んで、日の出の到来を早める。

反抗と約束された自由、

性の弾圧→ 明日には 良き性が、理論上数々の定式化を、ちりじりに跳び散らす。

己が機械の源である掟から、自分を解放して見せると約束する。

性の否定を肯定し、性を隠していることを誇示し、性の沈黙、性をはっきりと言葉で表現し、最も赤裸な現実において、あからさまに見せようとし、性の権力と作用を積極的な形で、肯定する事によってなのだ。

長い伝統をもち、広大な強要である性の告白のこの強要をどの様にして、学問上の諸形態の中に成立させるにいたったのかを突き止める事が「それは自分自身で行なわなければならぬ研究(仕事)なのである。鉱山の奥底に降りて行かなければならない。それは時間がかかり、苦労を要するのである。熱心に支持するものがある一方、懐疑の態度を見せるものがあり、共同研究に参加するものがある―方では 頭ごなしに拒否するものがいる。と言う多様さなのです。(ミフ)

 規範的な婚姻関係から、性が切り放されるとき、社会という圏域に、一つの歴史的形象としての性現象が姿を現す。それこそ、まさしく、近代的個人なるものの出現に結びついた1つの<性の観念>にほかならないのである。性の過剰は 本質的に悪いものというより、むしろ、潜在的に危険なものとみなされていた。

エンクラテイアの精神―道徳的な闘いを備えた男達は なによりもまず、自分自身と戦って勝つ、男の自由民は 巳自身の欲望の奴隷となってはならないのだ。自由は 我が家で心の中で始まる、だから、エンクラテイアの精神を備えた男は 自分自身に対す王である。「性の歴史」すなわち、「自己への配慮」である、自己制御の重要性が更に強調される。しなければならなくなったというわけである。自己は あまりにも現実的すぎるがゆえに、この自己へのあらゆる執着から自由に成る事である。自己自身についての真理を発見すればするほど、自己自身を放棄しなければならなくなり、そして、自己自身を放棄したければしたいほど、自己自身を明るみにもたらす必要がある。真理表明と現実放棄との螺旋と呼んで かまわないものである。(フ全)


「時、歴史以前的な歴史化−同時性の歴史以前的な時間化という視覚においてである。歴史を可能ならしめることによって、自己を歴史化するような、かかる根源的な時間化の一部をなす」(サ)

<無の場所>が 無限の存在と意味とを発生させる根源、或いは 場であることからの場所をあえて、原初のコスモス(有機的宇宙)と表裏を成すものとして、考察する事にしたい。無の場所も無限に組み換へが可能な動的なネットワークなのである。

時間するものであり、あらゆるものから見方を精力学的なる静観主義により、再び動力学的な行動的な見方に描きなおすこと。この世界を描きなおすこと、これは画家にとって、実に巨大な、新たな課題となったのである」(中315

「芸術は いきなり突如として、生の衝撃、息の感覚を与えなければならない(芸空141

「抽象が現実とは 全く別個に頭の中で組み立てられたものではなく、外界の知覚と常に不可分に結びついたプロセスであるということが示されている−画家の勇気と試行錯誤」(視200)、

実在と真理、主観的な歴史と言った古臭い抽象物の探求としての哲学は 終わりだと言う事を理由にして、人間の死を声高に宣言しつつ、人間性に関するこの上なく、差し迫った問題 (狂気、性、権力、刑罰、…)に遷延すると言う哲学のアイロニーからである。理性を鍛えれば、鍛えるほどニヒリズムを鍛える事になると、レオ、シュトラウスは 良く語っていた。

フーコーは ニヒリズムを手に入れるために 理性を鍛える必要など全くないと言う事を教えた。フーコーは 私達の講演ニヒリズムの創始者であった。

 芸術家というものは 決して現実から離れない」(オ)

言表の領域には 可能性も潜在性もない、そこでは 全てが現実であり、現実の全てがそこに現れている。(フ全)観察されるものを書き写し、諸言表を手がかりに、知覚の筋道を復元する仕方である。それは 記述すると、

明確な特徴に分節化すること、

特徴づける事

分類する事、 

             などの間の従属の関係と作用である。

肉をはぎとった骨ばかりの図式を構成するものではない。

「ぼくを驚かせているのは 今日の社会で 芸術は もはや事物としか関係を持たず、個々の人間とか、あるいは 人生とかと関係をもたない……、

如何なる個人の人生も一つの芸術作品であり得ないでしょうか?(ミフ)

自分の眼で見ると言う可能生を身に付ける事が、必要であると言うことである。現象学の問いが探し求めているのは まさしく存在者に関する知の根源性であり「根源的な真理」なのである。この問いは 決して存在者をあらかじめ、決定して所有するのではない。

この問いが目指しているのは まさしく存在者と格闘しながら、知を見えるようにすることである。(エフ)

ブラックは 述べるーセザンヌは もはや「観客」ではない 彼は「事物の外に」立ってはいない。彼は「行為の内に巻きこまれている」のだ、との発言は、そのような絵に対する我々の関係にも ある意味では 妥当する。

絵が 成功したかどうかは 私が 自分の絵の中にいるかどうか」にかかっている。絵は「それ自身の生命」をもっている 

時間空間を異にする所の絵画表現では、視点の移動や複数の視点が必要になる。() 


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