C 人間の創作活動〜
* 論理的把握と表現、そして、孤独との戦い
3つの段階「駱駝」「獅子」「小児」の変転の比喩で、重荷を担う「駱駝」は義務と禁欲を意味し、尊敬を値するものに服従し、積極的に学ぶ精神である。それは「汝なすべし」の戒律にしたがう時代であるが、砂漠に入ったとき、砂漠の主になろうとする。龍となり、自由を奪取し、獅子となる。孤独に耐え、自ら主たろうとする。固く結ばれていた尊敬と服従の絆を説き、「我欲す」の自由精神に入る。
批判戦闘の時代である。しかし、獅子はこれからの創造のために自由を確保しただけである。新しい諸価値の創造は 彼の手に余る。自由を手に入れても それだけでは自由にならない。こうして、ニーチェは 次の段階を言うのである。
私の兄弟たちよ、獅子さえ行う事が出来なかったのに 小児の身で行う事が出来るものがある。それは何であろう。小児は無垢である。忘却である。新しい開始遊戯「然り」という聖なる発語でる。そうだ、私の兄弟たちよ創造という遊戯の為には「然り」という聖なる発語が必要である。真に、積極的な創造の自由である。人類が、過去を眺め、偶然の支配、僧侶の支配から脱し、「なにゆへに」なんのために?という問いを はじめて人類全体として 発する大いなる正午用意をすることにある(ニーチェ)
* 論理的把捉と表現、そして、孤独との闘い
*論理的真剣さと遊戯的表現活動、そして歴史哲学を構築する為の破壊
創作活動は 人間に関わる事実の中で、最も重要なものの1つに数えられるものです。文化創造は 見えない無言のロゴスを見えるものにする努力でありその「見えない無言のロゴス」を探し求めて 表現しようとする事への「普遍的な理性」の構築を計ろうとする事は 生涯をかけての努力を積み重ね 徐々に成果をも積み重ねながら 成し得る為の修練を必要とする旅の始まりでもあるのです。
最高の悪は 最高の善の一端である、そして、最高の善とは 創造的なものなのである。「ニーチェ」
芸術は 本来、自然に対する人間の深い憧れ、あるいは感動、それをカンバスの中に再現、あるいは 表現するのです。その時の線、光、ニュアンス、その全てが自分のもの以外の何物でもないのです。
表現の美しさを除いて ただ、写実であるならば、我々は 写真が出来た以上、絵画の任務は 終わっているはずである。絵画芸術の役目として、制作技術の競争や誇示でもなく、ましてや観者のステータスシンボルでもありません。
物理的な道理として 写実的視覚では 全体像の50%強、(視差分が強となる) しか見る事が出来ない。当然 全ての全体像を把握する事は 出来ないのです。
アリストテレスは
@ 模倣という働きは 本能の1つである。だから、決して軽蔑すべきことではないことを証明している。
A 芸術は 決してただ個々のものの影を写すのではなくして、ある普遍的なるものを写すのである。
「体系空間」の出現である。1人の人間の視点が確立して その視点を軸として 今世界の体系が構成されるのである。すなわち、人間が全世界の観察者として 「主観」を確立したのである。今「独創」ということは 今までの人のやらなかったところのものを創る。人と違ったものを創るということが もし、万一 極端にまでいたれば、もはや流派を考えることが無理となり、危うくするならば、お互いに わかりあえない恐るべき「孤独」に転化するかもしれないのです。
「天才」「独創」が、極端にまで立ち至る時、ワイルドの私生活もそうであるが、ニイチエの超人もまたそうであるように 他人と異なることを極端にまで押し詰めてゆくと 全く 他の人間と異なることによって ついには それは人間でなくなることになってしまう。弁証法的にいうならば、全く、他のものに 変化するのである。
民衆は 真に偉大であるもの、すなわち、創造する力に対しては ほとんど理解が無い。(ニーチェ)
写実的又は 情緒的感情の観方の人生ではなく、総体的全体像の観方、すなわち見えない部分を顕わにして全部見ると言う。100%見る事の重要性が 如何に重要かは 判断が付くと思います。むしろ全ての絵画は 存在物との対話において「噛み砕く事」から始まり、そこに 自分の語らんとする心を表現するものであると言う立場が ここに新たに現れてくるのではないでしょうか。(中)
真剣と遊戯が 真に結びついて、はじめて -本当の芸術が生まれる。
摸倣家は 想像家に、性格家は 波動家に、
遊戯だけ〜個性的傾向、技法、妖怪派、波動派、素描派。
真剣と遊戯の結合〜普遍性の形成、様式、芸術的真実、美、完成。
美学は 他人を説得するレトリックでは無く、美や芸術の心理を求め、それについて 率直に語り出る仕事である。それを支えているのは 論理的な思惟ないし、認識活動以外のなにものでもなく、純粋な理論学であり、哲学的方法である。哲学的方法は 科学的方法より優位に立つが、科学的方法を排除したり、否定したりはしない。
人間の創作活動には 神の天地創造のごとき何もないと言う 無からの創造という性格は 備わっていないのである。」 (美) ですから、個人的才能によって創作されるということは ほとんど不可能と思います。もし出来た人がいたとしても、それらの作品には 論理性や倫理性等の規則ごとが欠落し、才能と言えるものではなく、マスターベーションと言わざるを得ません。
カントは 美の世界をでんぐり返した。彼は自然界よりも 「人間の自由」がより高いものであり、美とは 自然の中に「人間の自由」を感得することであると考えたのである。自然の中に理性的なものを発見し、創造するものと考えたのである。カントから遠く去った芸術論は 主観を解体させてしまった。 従って客観もが 今までの物自身としての実体性を失った。そして 芸術は 個人の主観が創造するものと 初めてなったのである。
作品が純粋の芸術作品であると言う事は 作品を生じうる為の内的な力量、すなわち、芸術の徳の高さにかかっているのです。おのれの魂の全てをもって、
「プラトンが言う、論理的、創作活動」とすべきである。それが「見えない無言のロゴス」の表現と成ることでしょう。ですから、論理学を上級認識と呼び、美学を下級認識と呼ぶ (か)のです。学一般は 普遍的哲学としてのみ可能である。
ソクラテスによると、作品は ある一定の形(エィトス)を有さなくては ならないと言うのです。 ある一定の形とは 「哲学的総体論」であろうし、また プラトンの宇宙創造論では 価値論、認識論、存在論を 体系的に考察して初めて語り得る。(岩ミ)と言う。
その形式となるすべを知らぬ事物には いかなる価値をも認めない。想像的なものは 現実的なものよりもずっと近くにあり、また、ずっと遠くにある.ずっと近くにあると言うの 想像的なものが、実は 現実的なものの わたしの身体内部での地平を同じくした生活表であり、隠されたもののすべてをあらわにする事によって、初めて、視線にさらされたその果肉、その肉体を備えた裏面にほかならないからである。
オスカー.ワイルドの言葉
芸術は 決して模倣ではない、むしろ 自然が芸術の模倣である。一体自然とは 何であるか、自然は 我々を生んだところの大いなる母親ではない、自然こそ、我々の創ったものである。
諸芸術概念
天才の概念〜狂気の概念
独創の概念〜孤独と遊離の概念
* 伝統の美学は 自我の崩壊と共に崩壊して、1つの伝統的空白時代が出現しつつあるのである。
* 芸術創作行動が 本格的試練期に入ろうとするこの世紀の後半、歴史的な意味をもった事となるであろう。
* このことが、個人主義的段階の美学を見事に引き離してゆく重大なる要素となるのである。「歴史そのもの」が「真実そのもの」が孤独であること。
<現実的なもの>の持つ<想像的組成>を再考すべく機会を提供しているからである。 (岩形) ならば、普遍的哲学や価値論、認識論、存在論など、全て論理的追求をやらなければならない。例え 成功の確率が低く、生活や自らの生涯を犠牲にしたからとて 悔いが残ろうか。
一定知識を 順序正しく習得し、これを実地に応用する訓練を掴み 思考錯誤的経験を経れば 技術と種類に応じて 多少、難易度の差はあっても、誰もが、必ず実行できるのであると言う。したがって,プロフエショナルとアマチユアの差は もともと訓練の激しさ、厳しさである。それは 何時でも芸術性を生み出すと言う保証は 無い。訓練と芸術性の実現との間に緊密な因果関係を確立する事は 出来ない。しかし、それにもかかわらず、芸術は 成功する。この成功が現象する為には 工技の訓練の激しさ、厳しさがなければならない。それが、芸術成功の必要条件である (美)
私は 常に自分自身を超越し、乗り越えざるを得ないものなのだ。(ニーチェ)「間にはまる」には ただ訓練、1にも2にも 練習がいるというのである。訓練の中で 大いなるもの、自然あるものに任すことが 本当の合理的なものに 到達するということがわかってくる。浄土教で「他力」といい、如来に任すということがちょっとやそっとの訓練で ここには 至れないのである。訓練と行動を尊ぶ心は 実は 大きな現実への信頼があって、はじめてできることである。現実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ず潜んでいることを信頼しきっている証拠である。
自分の肉体を信じ、この世界を信じ、歴史を信じ、人類全体を信ずることである。「大乗」〜大いなるもの (理論の上) に乗りきって案ずる信念のためなら「自分に死ね」と言えなくては 本物ではない。自分がより新しく 自分から脱出するということは 切って捨てるような感じでもって、自分自身を捨て去ることが この生活の基準となり、また、芸術の調子ともなるのである。自然そのものは 分子構造の運動体の集合にしか過ぎないのである。
「天才は 99%の汗と1%のインスピレーションである」エジソン。(聖)
失敗を本来内包しながら 芸術は 生起に成功する。従って、恩恵は ただ消極的に期待するだけではなく、積極的な努力が期待と結びつくところにのみ生じうるのである。(美)
実存的決断による行為のみでは 芸術家たる事は 出来ない。自然が これに味方してくれなければ 芸術家として存在する事は 出来ないだろう。(美) 一つの現象的現実に対する知覚であり、もう一つは 自分がこうであると信じる現実である。この知覚のニ元性のストレスこそ、画家の創造の出発点であるかも知れない。(視)
アウグスチヌスにおいては、無とは 必然のごとき力をもって、存在の生成を阻むことは 全くないということになる。(岩ミ) 無から自由の創造活動と言っているのは あたかも、作家自身の無知さ、ではないだろうか。「鍛錬に鍛錬を積み重ねることでのみ、初めて宇宙の中に本当の自分にめぐり会うことが出来るのである」 あらゆる分野から学び、実行する。又、学び実行する。思考錯誤の繰り返しと言う事にある。
芸術の歴史の示すところでは 売れっ子ではない、貧乏して苦しんだ芸術家が、このような本当の自分にめぐり合っているらしいのである。(中p15)
最も容易なるのは それを評価する事であり、より困難なのは それを把捉する事であり、最も困難なのは 把捉と評価とを合わせ、これに 表現を与える事である (へ)
大芸術家は 時代を超えて文化規範の表出の段階に留まることなく、遂には 孤独に至るのである。(視) 貧乏で苦しむことの一生は 正直言って辛いもの、自分自身は耐えられても 妻に強いたりすることは でき難いものです。しかし、やり抜かねばならない。成功が有り得なくとも、「目的による統御」の達成と 自分自身にめぐりあえれば それこそ、この世に生まれて来た甲斐があるというものでしよう。 それに耐えうるか否かではないだろうか。芸術の世界では 自分が自分自身を追いぬこうとして走っているような 引き締まった ちょっと普通でない世界が生まれてくる。(中) 又は 芸術を破壊しょうと努力している (テク) ことです。
「機械主義を支配し、もしくは 凌駕すること、それを全うすべき一つの精神的教育を鍛え上げること、恐らく個人と社会との間に存する脊髄を凌駕すること、これが現在全ての学者、哲学者、芸術家に課せられている仕事である。」(中p137)
偉大なる問題の時代、解析、試練、美学上の偉大なる価値転換の時代、この現代こそ「新しき美学」の出現することであろう。ところの時代である。
美学者の視線は 天才よりも技術へ、独創よりも模倣
「芸術家自身が芸術を破壊しようと努力しているのである。」(テクp102)多くの破壊は 破壊するべき芸術の根源の論証的確立がなされていない為、頭打ちによって破壊している場合が多いのでしょうが、そうではなく、新しい論証を把捉して、それを表現する為の破壊があるのでなくてはなりません。それこそ、ゴッホの晩年を思い出してならないのです。新しい絵画様式を創り出す努力はしたいものの、理論の後押しがなかったので、かなり 情緒不安定であったかと思います。
芸術の破壊とは 人間にとって役立つ作品創りの為、そして、歴史哲学を構築する為の破壊でなければならないと思うのです。多くの場合、一生を賭けて徐々に成果を積み重ねながら修練を必要とする。」(視p153)
死する前に成果は見たいものです。ゴッホのように 生涯に成果を見ることが出来なかったことは 辛く、それこそ、ある一定の段階で制作に対する試行錯誤が頭打ちに陥ってしまい、暗中模索となり、あのような終末となってしまったのではないだろうかと思う。何がなんだかわからないほど、苦しんだに違いない。そして「大芸術家は 時代を超えて文化規範の表出の段階に留まることがなく、ついには 孤独に至るのである(視p165)
ゴッホに対しては 絵を売ることをしなくても画業を続けることができたことは 経済的には 最も恵まれた画家であると思います。売り絵ではない 芸術作品の試行錯誤中の未完成の「絵を売る」ということは 私にとって 最も大変なことだからです。
新しき理論や考え方が見つかると、様々な仲間達にぶつけてみたものですが、最初の頃は 温和でしたが、だんだんと訝しいものと思われるようになりました。今では 自問自答を繰り返しながら、知識を何度も反復し、その知識と制作技術が作品に成果として表れるようにする以外に、確信する方法は 無くなりました。
仮想実在が可能であると言う事実は 計算だけではなく、人間の想像力と外的体験、科学と数学、芸術と虚構の基礎でもあることが導かれます。(世界)
私たちの感覚で握んだものを考え抜くべきだ。
極めて厳しい態度である。論理性が高まれば高まるほど、不動のものとなり、考えを変えることなど出来るはずがありません。しかし、生きるという現実に対しては苦しみが 増すばかりです。探求し、把捉表現を繰り返すことは「この世に生きる」実感はしていないだろうと思います。ただ、表現のみが充実感と心のよりなのかも知れません。しかし、表現しても、また、否定から始まる。完成は 程遠いものとなろう。(ニーチェ)