8月23日

 この旅行のメインディッシュ、ヘリコプターでナリチェボ渓谷に行き、温泉に入る予定となっている。

天候の都合で日にちをずらす為に 残りの2日間を空白にしてあるほどだ。

ベッドから覗くと 青空。 予定通り飛べそう!

8時、朝食に降りていくと 「まだ、気流が不安定で いつ飛べるか判らないのです・・・10時半

ぐらいまで ホテルで待機します。」とガイドのパーシャが言った。

「そんなの、もったいない! バスも来ているのだし 皆を市内観光に連れて行ってよ、たとえ1時

間でも・・・」と私は交渉し バスに乗った。

今日のバスはオンボロ、 背もたれにはハングル文字が書いてあった。

もちろん、最初の行き先は 「フー!フウ!」と霧を飛ばしたアバチャ湾が見下ろせる丘の上。

コーリャック山が 見えた!

昨夜の雨が新しい雪となったのか、朝日に煌めく富士山のような山は 神々しかった。

“恋人たちの小道”と名づけられた公園を経て 再びホテルに戻った。

 

アパチャ湾 コウリャク山

パーシャは携帯電話を持っていないため、 いちいち電話をするためにホテルに戻るのだ。

 やっと出発できそう、というので ヘリの基地までオンボロバスでまたエリツボの街を抜けて、

40分。

コーリャック山とアバチャ湾の美しい姿がたえず 傍らに見えた。

空港近くのヘリの基地は軍隊の司令部のようなところであった。

皆の荷物の総重量を測って トイレを借りたりしてまた、待機。

Aさんは 私がコピーしてあげたロシア語のしおりを使って バスの運転手や、

現地の人たちを巻き込んで ロシア語レッスン。

彼には 退屈という文字はなさそうだ。

 

 ようやく、GOサイン。 時間は12時近かった。

パーシャと食事係りの女性タチアナと私たち10人がヘリに乗り込んだ。

椅子とはいえないようなベンチにお粗末なシートベルトが付いていた。

ものすごい音で地上から離れていった。 農作物の畑の上に ヘリの影がトンボのように

映っていた。

本来ならコースはコーリャック山{休火山 3456m}と

アバチャ山{活火山 2741m}の谷間を採るらしいが

気流が不安定で コーリャック山の脇から 大回りをするようだ。

コーリャック山を越えると 新たな富士山がいくつも見えてきた。 雲は深く厚くなってきて 

山の天気の不安定さを感じた。

 尾瀬沼のような原野のヘリポートに30分ぐらいで 無事到着。

ヘリは私たちを降ろすと すぐに飛び立って行った。

辺りの草が 波のようにうねった。

パーシャは 「4時間後ぐらいに 迎えに来ます!ヘリの音がしたらここに来てください!」と

まだ 爆音が去らないうちに 叫んだ。

やっとヘリに乗れる ナリチェボ渓谷に到着

少し歩くと 小川が流れていた。

手を入れてみると 熱い、 もったいない・・・・

キャンプ村で昼食の準備を 食事係りのタチアナがする間に 温泉を見に行った。

せき止めたらどこでも温泉、 四方の雪山を観ながら野趣豊かな温泉三昧、

トッテモ イイカモ・・・

皆は「少しぬるくない?」とか言っていた。

パーシャが「下のほうへ行くと もうちょっと熱いです」と言ったので

皆「食事が済んだら 下のほうへ行こう!」と言いながら食事が始まった。

 

 Aさんは日本から焼酎持参、酒好きのSさんやTさんは いつも相伴にあずかっていた。

熱いお湯で割った焼酎を 私もいただいた。

少し肌寒い風が吹いていて 体が温まってきた。

タチアナが用意した食事の中には ワラビの煮物も入っていた。

「カチューシャ」の歌の歌詞をパーシャとタチアナに見せると

“ラッセターリ・ヤブラニ・イ・グルーシ・・・・”とタチアナは 水を得た魚のように

澄んだ声で歌いだした。

ロシア民謡が次々と溢れ出し、さながら“歌声喫茶”と化した。

焼酎もまわって、年齢層も歌声喫茶世代 皆の乗りもいい!

 

 さて、温泉の時間が来た。

主人と私は 先ほどの温めの温泉に向かった。

木で出来た男女別の更衣室が湿原にポツンとあり、早速水着になった。

 八ヶ岳の本沢温泉は スノコが一枚あるだけだったことを思い出した。

温いといっても お尻があたる砂は程よい温度で、ところどころは湧き出していて

熱いぐらいだ。

湯に入った目線で改めて回りの山々を眺めた。

ウーン!!素晴らしい! の一言。

頭上には いわし雲・・・・

 

下のほうへ行くと 山が重なってしまい これほどのパノラマは味わえないのでは・・・と

主人と言い合った。・・・・とは言え、 感動も二人だけで味わっているのは少し寂しくって 

私たちも下の温泉に移っていった。

 賑やかなAさんは 男性軍を従えて シンクロさながら 足を一斉に上げて

鼻歌を歌っていた。

 

帰り道、黄色の小花が一斉に太陽に向かって咲いている場所に出た。

殆どの花が終わりの時期に ここだけは過ぎ去ろうとする短い夏を惜しんでいた。

ヒバリが 足元にチョロチョロ、人間を恐れない。

パーシャが時折 屈みこむ。

「何してるの?」 「ガンコウラン・・・」???

ブルーベリーのような色と味であった。

「一粒食べると 1000年生きれるのよ!」などと口から出任せを私は言った。

 野薔薇の実も紅くなっていた。

 

小屋が脱着場 小屋の前が川にある温泉 温泉から眺めた風景
原野を歩く 原野のお花畑
食事係りのタチアナ と ガイドのパーシャ 温泉の熱湯が流れる川

ヘリポートに戻る前に 溶岩が隆起して熱い湯が流れているところを 見に出かけた。

熱いお湯の川底は 緑色のノリのようなものがべったり付いていて 辺りは異様な風景であった。

 「死都日本」という本を出かける前に読んでいた。

作者は石黒耀さん、医者である。

 鹿児島の霧島火山群の噴火で 火山灰が日本列島を覆ってしまい、気温は下がり、

農作物は出来ない、政治も麻痺状態、アメリカが日本を属国化しようとしてくる・・・・

火山に興味をもつ医師が書いた小説ではあるが 読んでいた頃、九州では

洪水の被害が 多発し 東北では同時期に地震が続いていた。

決して SFではない、予感のようなものを感じて読んでいた。

世界的な火山研究所が カムチャッカにあるとその中に書かれていた。

 

ヘリの着陸場所に戻ってくると 大柄な人達が数人居た。

「ズドラストビーチェ!」と挨拶をすると 英語で返事が来た。 オーストラリアの方たちだった。 
研究者の方たちだろうか?

夕方になってきたこともあり 雲はかなり厚くなってきた。ヘリの音がだんだん大きくなり 

迎えがやってきた。

パーシャの話では 十日ほど前に 日本人の女性が料理人とここに来て 一泊のつもりが

天候が悪化して なんと一週間も留まっていなければならなかったそうだ。

ビザが切れてしまって 延長手続きがやっかいだったとも言っていた。

「食事はどうしてたの?」と聞くと

「女性二人だから なんとか食べつないでいたようですよ」と言った。

私たちは 本当に運がよかった・・・・

 

上空の景色は 雲が厚くなって 重々しく 今にも雪が降りたそうな気配だった。

それでも ナリチェボ渓谷を抜けてしまうと また、 澄んだ青空となった。

ヘリポートに着いた頃は アバチャ山とコーリャック山は仲良く手をつなぐかのように

ふんわりとした白い雲が中腹でつながっていた。

 

 そのコーリャック山に向かって更に悪路を走った。

イテルメン人の村を訪問して 民族舞踊を見ながら食事をするコースがこのヘリツアーには 

セットされていた。

ヘリの出発が遅れたこともあり 村に着いた頃には 日は暮れかけていた。

 

まず、虫の大群のお出迎え。

私は準備良く ドクターが褒めてくれたネットのジャケットを着ていたが

メンバーの中には 用意はしていても ホテルに置いたままの人達もいて いきなりの虫の歓迎には 閉口していた。

小柄で太目の民族衣装を着た女の人が出迎えてくれた。 ビーズのヘアー・アクセサリーを付けていた。

一族の長らしき男の人が 焚き火をして 白い煙の向こうにいた。シャーマンなのかも・・・・  

木の枝で私たちの邪気を払い 木の枝のアーチをくぐるように促した。

こうして イテルメン人に受け入れられた私たちは 虫攻撃の中にタイムスリップしていった。

 
わらで出来た動物を弓矢で射止める遊びに長が誘った。

主人はみごと、命中した。 白樺の皮で作った頭の飾りを褒美に付けてもらった。

皆で踊ろう!と言われ Aさんも巨体を揺らせて踊りだした。

一族は子供たちも皆、オットセイの皮をなめしてハンノキで染めた茶色のコスチューム、

ビーズをあちらこちらにあしらい Aラインの裾が彼らの踊りに合わせて揺れていた。

リズムをとるのは 巨大なタンバリンのような楽器。

これらは 昨年のピースボートの旅の折にも 船に彼らのような一族がやってきて

踊ってくれたので 私にとっては目新しくはないのだが、 森の中でこうして踊る姿は 

スー・ハリソンが9年の歳月を費やして書き上げた小説「アリューシャン黙示録」の主人公たちが 

本の中から飛び出てきたような錯覚を覚えた。 

火をたき小枝で私達のお払いをし、清めた 歓迎の踊り
魚が泳ぐすがた・鳥が飛ぶ姿を現した踊り 虫除けの網をかぶったメンバーたち
一緒に踊りましょうと 勧められメンバーも踊りました 踊りがしなやかで、しかも美人が多かった。

 

食事は ウ・ハという魚のスープ、キノコのハンペンのようなものなどが出た。

食事の間も彼らは踊っていた。

先祖は文字を持たなかったのかもしれない、皮のなめし方や縫い物の様子などが踊りとなって

伝承されている。

昔の住居にも入っていった。

トンネルのような通路を入っていくと 焚き火で燻った小暗い空間には 

はしごが真ん中にあり 空が四角く見えた。

このようなところに 何家族も住んでいたのだ・・・・

この中に入った者は 歌を歌わなければならないと言われ “さくら さくら”を歌うことにした。

皆の音程がまちまちで 彼らには 日本の歌は 不協和音に聞こえたのではないだろうか?

 

エリツボを経てホテルに戻った。

Aさんはイテルメン人の作った食事が合わなかったのか ホテル近くの韓国料理の店で 

バスを降りた。 仲間たちも次々と降りていった。

 

 ロビーで 明後日のビストラヤ川、川下りの打ち合わせをパーシャとしていると

メンバーが数人だけ帰ってきた。   口々に 「場違い!場違い!・・・」と言って。 

トイレをまず借りたら 全部大理石、入っているお客は 皆、正装、 

このひなびた港町にも 上流階級のエリアがあるのだ・・・・・