人生に杭ありパート3


 人生が順調とは限らない。私も多々つまずき、傷ついた経験者である。読者の参考のために、それらの中から主だったものを記してみよう。題して、人生に杭ありパート3。


パート3

  顔面神経麻痺で大きなダメージを受け、その痛手と戦っている最中、またもや大事件が起き上がった。今度は突発性難聴である。それは顔面神経麻痺発症の約1年半後、平成元年5月のことであった。
 
 最初の異変に気づいたのは夜9時ごろ、風呂から上がった時であった。左耳に違和感があり、水でも入ったんだろうと大して気にもせず、そのまま就寝した。そしてあくる日の朝起きてみると、なんと左耳が聞こえない。しかし当日団地内の集会があり、私は班長だったのでそのまま出席した。途中歩くのもなんか変だし、人の話も良く聞こえない。しかしそれは我慢して、集会は終わり、家に帰った。昼食をとった後疲れが出てきた。そこで私は2階の部屋の布団にもぐりこんで、ぐっすり眠ったのであった。
 夕方4時ごろ目を覚ました。しかし起き上がろうとしても起き上がれない。天井がぐるぐる動き回っているようで、立てないのだ。吐き気もする。これはメニエール病かと思ったが、家には自分ひとり、妊娠中の妻は外出中であった。とりあえず何とかしなければと、必死の思いで這いながら1階まで降りた(らしい、あまりにも必死で記憶がない)。そして10キロほど離れた妻の実家に電話した。
 妻はいなかった。しかし義父と義母がいて、家まで来てくれた。とりあえず脳神経の病院に直行した。そこで即入院となった。病名は突発性難聴、脳幹梗塞だと後で言われた。突発性とは早い話原因不明ということである。左耳は完全に聴力を失っていた。聴力測定器の計測限界を下回っていた。めまいがひどく上半身を起こすだけでも辛い。食事もトイレもともかく少しでも体を使うことは、とても疲れて辛かった。検査でCTスキャンや、MRIも行った。これが結構辛かった。治療は高圧酸素療法を行った。土管のようなところに横になり、2気圧の酸素中で過ごすのである。神経のダメージを回復させるのには有効との事だった。しかし効果はほとんど現れなかった。ただ少しずつ歩けるようにはなった。
 1ヶ月ほどで退院した。一応歩けるようになったので後は通院ということになった。耳は相変わらず聞こえなかった。医者は、治るより慣れろだと言った。つまり治らないということだ。不思議なことに退院して少し経ったら、わずかながら左耳が聞こえるようになった。しかしその後は固定してしまい、未だに左耳は不自由である。困ったことに三半規管もやられたらしく、時折めまいや吐き気がする。目をつぶっての片足立ちはできない。特に疲れるとそうなるし、何をやってもすぐ疲れるのである。
 
 これで益々仕事は出来なくなった。この時点で半分窓際族となった。しかしまもなく子供が生まれ、何としてもがんばるしかなかった。あまりにも苦しくて、身体障害者に該当しないかと市の福祉事務所に行ったことがある。しかしそこで示された等級表には該当しなかった。わずかにしか聞こえない左耳が恨めしかった。まったく聞こえない場合は該当するのである。実質的にはまったく聞こえないと同じなのにと、この時ばかりは怒りを覚えた。吐き気や疲労感などは数値化できないし、本人以外わからないので、どんなに苦しくてもまったく問題にされないようであった。
 

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