身体の傷は、かなり癒えていた。
少し油断して、迂闊に動いた拍子に痛みが走る程度で、声を上げるほどの痛みは無くなった。
あとは、引き攣る瘡蓋や打撲の痣、もう少し安静にしていれば肋骨も完治するはず。
時々、医者だと言う男がこの部屋を訪れて慎吾の傷を診て行くだけで、日中の殆どの時間は一人きりだった。
身体の自由がきくようになると、一人の時間を持て余すように、慎吾は他の部屋を見て回った。
中里からは、特に動き回るなと言われたわけではないし。
寝かされていた寝室を出るとそこはダイニングになっていて、他には2部屋とキッチンに、廊下に出てバス・トイレという、一人暮らしにしては広い間取りの部屋だった。
家具類等は余程必要な物しか揃えられてはいないが、中里の裕福そうな暮らしぶりに、慎吾は忌々しげに顔をしかめた。
どうせ自分を拾ったのも、金持ちの道楽みたいなものだろう。
完全に傷が癒えたら、こんな胸くそ悪い所、すぐにでも出て行ってやる。
そうだ、傷が癒えたら…それまでは、もう少し、いてやってもいい…。
慎吾は、出て行くならそれでもいいと、鍵を預かっていた。
鍵さえかけて行けばいいと言われたが、開け放したまま出て行くとか、鍵を持ったままで後から忍び込むという可能性だってあるというのに、本当に信用しているのだろうか。
それとも…慎吾がまだ、外へ出ることに抵抗があるということに、中里が気付いているというのか。
そう思うようになったのは、中里と向かい合って食事をするようになってからだ。
中里は、朝出掛けてから夕刻戻るという生活を、崩す事は無い。
多分、ここに慎吾がいる事は、医者と中里しか知らないのだと思う。
****
慎吾にとって、これほど一人きりの時間を持つのは、久しぶりだった。
これまでは、大抵賑やかな仲間と夜通し騒ぎまくって、自分の部屋に帰ることなんてほとんど無かった。
その内に、部屋を引き払って仲間や女の家を渡り歩くようになった。
奴と出会ったのは、そんな時だ。
会ってすぐに意気投合し、一緒にバカなことばかりやらかして、すごく愉しくて、生きてる実感がした。
こいつとだったら何でも出来ると、そう思うぐらい充実していた。
だから、奴の過去なんて、慎吾にはどうでもいいことだった。
別に、中里が何をしているとか、家庭環境とか、そういうのを知りたいとは思わない。
中里から話すことも、慎吾が聞くこともしない。
それが暗黙の了解のように、奇妙な同居生活は続いていた。
顔を合わせるのは、中里が帰宅して食事をする時ぐらい。
時たま話しかける中里に、首を縦か横に振るだけだったり、必要最低限の言葉を返すだけだったり。
そんな慎吾を苦笑いながらも、中里の瞳にはどこか憐れんでいるような感情が見え隠れしてしていた。
慎吾はそれに気付かない振りをして、食事が終わるとすぐに寝室へと閉じこもった。
ダイニングに一人残された中里は、深く溜め息を付く。
その表情には、はっきりと苦悩が見て取れた。
慎吾を部屋に引き入れて数日、傷もほぼ完治しつつある。
ここに慎吾がいる事は、今のところは友人の医師にしか知らせてはいない。
だが、いずれ連中が動き出すのも、時間の問題だろう…と、中里は感じていた。
慎吾を襲った首謀者は、多分中里の知る人物だから。
それを知った上で、ここに慎吾を連れてきたことの罪悪感に、中里は表情を歪ませた。
****
中里が慎吾を見つけたのは、丁度出勤しようと部屋を出て駐車場へと向かう途中だった。
電柱に寄り掛かるように座り込んでいる男に、酔っ払いがこんな所で寝込んで…くらいに思っていた。
近づくにつれ、男の身体全体から浮き上がる紅い色が気になった。
目前まで行き、その紅の正体に気付く…それは、紅黒く染まる、血の色。
苦しそうに途切れ途切れに息をする男を、そのままにはしておけなかった。
すぐに職場に連絡を取り、午前中の休暇を取り付ける。
そして、再び携帯を手にして短く話をすると、中里はその傷だらけの男を抱えて、また自分の部屋へと戻ったのだった。
瞼や口元を塞いでいる黒く乾きはじめた血を濡れたタオルで拭うと、痛みに身体が跳ねその度に顔を歪ませる。
タオルは見る間に血の色に染まり、Tシャツを彩る紅に相当な暴行の跡が見られた。
まるで自分が傷を負ったような痛々しさに耐えかねて部屋を出たところへ、インターホンが鳴り聞きなれた声が耳にはいる。
ドアを開けるとそこ立っていたのは、手元に小振りなソフトタイプのアタッシュケースを持った、賢明そうな顔立ちの青年だった。
「俺を直接呼び出すという事は、何か厄介なことなのか?」
「…まぁ、な…だが、お前の専門分野だ。」
中里は、辺りを見回してから、彼を部屋に招きいれた。
奥へと向かった青年は、開いたままの部屋の前で足を止めた。
「確かに…ある意味俺の専門分野、だな。」
意を得たように、彼は自分の作業の準備を進めるべくケースを開く。
その中には簡易的な医療器具が収納されており、鋭利な鋏で衣服を切除していくと、身体中に残された暴行の跡に2人は息を呑んだ。
「これは…かなり酷いな…。ウチに運んだ方がいいんだが…。」
「いや…出来ればここで…。無理、か…?」
あの場所に傷だらけのまま放置するという行為に、自分を巻き込もうとする思惑が感じられた。
だから、この男を部屋に運び入れた時点で、もう避けては通れないと直感した。
同時に、これは誰にも関わらせてはいけないとも思ったが、男の生死には代えられない。
それに関しては、この友人の医師には申し訳ないと思う。
中里のそんな想いに気付いたのか、呆れてワザとらしく大きな息を吐き、彼は手際よく治療を始めた。
幸い、見た目よりも致命傷となる傷は少なく、多分ヒビが入っているだろう肋骨は安静にするしか手の打ちようが無い。
あらかたの治療も済み、鎮痛剤の所為か男は静かに寝入っていた。
身体中に包帯を巻かれた姿が、ひどく痛々しい。
身支度を整える彼にコーヒーを勧めると、その香ばしい香りに、殺伐としていた感情を少しだけ落ち着かせる。
「…奴は、知り合いか?」
彼がコーヒーを受け取りながら、静かに中里に聞いた。
「いや…通りすがりだ…。」
「そんなことだろうと、思ったよ。」
今日、何度目かになる溜め息をつき、切れ長の瞳を更に細めて中里を見つめる。
「お前がこんな頼み方をするのは、余程訳ありということなんだな。」
「お前が頭のいい奴で、本当に助かる。」
その短い会話だけで、彼には大体の事情が呑み込めていた。
それは、中里の家庭環境をよく知る、付き合いの長い彼だからこそ、なのだろう。
「お前はこれから仕事だろう?多分、発熱すると思うが、どうする。」
「そうか…じゃ、これからちょっと顔を出して、そのまま直帰することにする…。」
「わかった、俺もその頃にでも顔を出そう。一応、患者だからな。」
「すまん。」
彼は、何か考えを巡らすように男の眠る寝室へと視線を向け、表情を険しくさせた。
あえて口にするような事はしないが、中里には彼が何を考えているのか想像は出来た。
忙しい時間の無理な呼び出しにも快く応じ、尚且つ自分の事を案じてくれる友人には、本当に感謝している。
そのまま何も聞かずに帰って行ったのも、彼が気を使ってのことだろう。
中里も、男を一人で残して行くのは気懸かりだったが、深く寝入っているのを確認すると部屋を出た。
日は既に天頂高く昇り、陽射しは眩しさを増している。
さり気無く辺りを窺ったが怪しい人影はなかった。
それでも、早めに仕事を切り上げて帰るつもりで、中里は愛車のエンジンを回した。
いつもより早い時間に帰った景色が、どこか他人の部屋のような錯覚に陥るほど、ここにいる時間が限られていることを実感した。
同じ時間に繰り返される、同じ生活…そこに入り込んだ、暴力的な紅。
寝室の扉を開けると、まだそこに男は眠っていて、薬の効果が切れたのか苦しそうな息をしている。
包帯に染みが浮かび上がり、傷の深さを感じた。
痛みの所為の脂汗か、発熱による汗なのか…うっすらと汗ばんでいる顔に濡らしたタオルをあてると、一瞬呼吸を楽にする。
そんな様子にホッとしているところへインターホンが鳴り、今朝と同じく男の治療にと彼が訪れた。
再び傷を消毒し、包帯を取り替えるために男の上体を抱き抱えていた中里の耳元で、微かに声がした気がした。
多分、意識が混濁した状態の男が呟いたうわ言なんだろうが、その言葉は中里を動揺させるには充分だった。
彼は、そんな中里に険しい表情を浮かべながらも、治療を続けている。
治療が済んだ頃には、もうすっかり日は落ちていた。
彼もこの後は特に予定は無いと言うので、あるもので食事を済ませて少し飲もうかということになった。
元々、彼にはこういう風に差し向かいで飲むような雰囲気は無い。
どちらかと言えば、どこかの洒落たバーで軽く嗜むようなイメージがあるため、2人で飲むのは長い付き合いの中でも滅多にないことだった。
とりとめの無い会話をして、ふと話題が途切れた時、彼は中里を見据えてそのよく通る声を響かせた。
「…いいのか、このままで。今日、ウチに問い合わせがあったそうだ。
『怪我人が、運び込まれなかったか?』と…。」
「やはり、な。お前の所に行かなくて正解だったよ。」
それは、予想していたことだった。
ここから一番近い病院は、彼の所だ…もし、そこに運んでいたなら、きっと病院にも迷惑をかけていただろう。
今の彼の言葉で、中里の予想は確信に変わった。
やはりこの件には自分のよく知る人物が関わっていて、その目的は自分に向けられているのだと。
「そうじゃないだろう。ウチに連れて来ていれば、ただの怪我人で済んでいたということだ!
お前は何も関わっていないことに、出来たんだぞ!」
いつも冷静な彼にしては珍しく声を荒げているのは、アルコールで高揚しているからだろうか。
でも、ここまで来てしまっては、もう無関係だなんていえるわけが無い。
今は最良の解決策なんて想像することも出来ないが、これは自分がどうにかしなければならないということだけは、感じていた。
「お前には、本当に感謝してる。奴も落ち着いてきたし、これ以上はお前も関わらない方が…。」
「バカな事を言うな!完治していない患者を、放って置けるわけないだろう!」
それは、医者としての言葉か、友人としての言葉か、どちらにしろ自分を心配しているからだと思うと本当にありがたいと思う。
「お前がそんなに仕事熱心な医者だったなんて、知らなかったよ。だが…助かる…ありがと、な。」
照れ隠しに嫌味交じりの言葉を返す中里に、彼は失笑を返す…それだけで、充分気持ちは伝わったと思う。
後は、覚悟を決めるしかない。
その重苦しい雰囲気が漂う空間に、緊張を解くように彼の携帯が着信を告げた。
彼は、弟からの電話に短く返事をして、迎えに来るように言うと身支度を始めた。
程なく、迎えに来たのは闇にも映えるほど黄金に輝く、彼の弟の車。
「何かあったら、すぐに連絡しろ。」
帰り際、彼はそう言って中里の肩を軽く叩く。
これは紛れも無く、友人としての彼の言葉だと思った。
そのまま車に乗り込み、静かな住宅地にノイズを響かせて帰って行く彼を、中里は見えなくなるまで見送っていた。
****
隣の部屋では、まだ男が眠ったままだった。
時折、傷が痛むのか呻くように声を上げ、中里はその度に様子を窺った。
自分の所為でこんな酷い目に遭ってしまったのかもしれないと思うと、心が痛む。
どうしたら償えるのかなんて、おこがましい考えかも知れない。
せめて傷が癒えるまでは、何も聞かずに、何も知らせずにいようと思う。
その間に、やれるだけの事はしよう。
今まで中里が避けてきた、男が朦朧とした意識で呟いた名前の人物と、ちゃんと向き合おう。
苦しげな息をする男の汗を拭いながら、そう誓った。
結局、男は丸一日眠り続け、初めて意識を取り戻したのは、中里が午後から有給を取って帰宅したのと同じ頃だった。
微かに声がした気がして隣の部屋を覗いた中里を、うっすらと瞼を開いた男が虚ろな瞳で見つめた。
窮屈なネクタイを外して男の眠るベットに近づくと、男は警戒心からか身体を強張らせ、一瞬だったが刺さるような視線で中里を睨み付ける。
その視線に強い生命力を感じ、かえって安心した。
だが、まだ意識は曖昧で、寝ては覚めてを繰り返している。
深夜になり、辺りが寝静まってすべての音が消えている中、男の荒い息だけが響いていた。
痛みに歯を噛み締めたのか、口元に滲む鮮血がやけに紅く映えている。
「大丈夫だ…じっとしてろ。……ったく、野良犬みてーだな、お前…。」
血を拭うと、触れられるのを拒否するように身を強張らせる男が、人に気を許すことのない野良犬みたいだと、思わず口を付いて出た。
迂闊に近寄れば噛み付かれそうなほど、怯えて、すべてを拒絶している、野生の獣のようだと思った。
****
「お前の身に起きた事が、普通じゃないってのは、その姿を見ればわかる。
…そんなことを、無理に聞きだすほど、俺は野暮じゃないつもりだ。
お前が言いたければ聞く事は出来るが、そうなると俺は、無関係じゃいられない。」
そんなのは、嘘だ。
中里は、すべて知った上で、無関係を装っている。
そうしなければ、この男に対して申し訳ないと思っていた。
自分が襲われた原因である奴に介抱されたなんて、この男にとっては屈辱でしか無い。
お前を巻き込んでしまった責任は必ずとる…隣の部屋で寝入っている慎吾と名乗る男に、中里は言葉には出せない思いを胸中に秘めた。
END
<2006/6/13>
なんだろう、これ…まだ、続いてたりします。
一体どこに向かっているのやら(汗)
これで終わらせようとしたはずなのになぁ。
多分、某医師が出てきて予定が狂ったのでは…。
思ったよりも、出番が多くなったのは、何故?
どんどん訳がわからなくなってるし、
ちゃんと終わるのか不安になってきた。
とりあえず、もう少しおつきあいしてください。
きっと、終わるはず…(^_^;)
きっとね、きっと(苦笑)
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