歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記天草四朗
   

天草四朗の生涯

  
 

 島原の乱にて、若きリーダーとなった天草四朗(本名・益田時貞)。有名な割には謎の多い人物でもあります。16歳ほどの若さで2万とも3万ともいわれる一揆軍のリーダーとして選ばれ、また島原の乱の発端の事件には関与していないにも関わらず、戦闘が本格的になってきたころに突如として現れます。彼は、いったい何者なのでしょうか?その生涯について、すこし詳しく見てみましょう。

 天草四朗の生まれについては、詳しくはわかっていませんが、1621年〜1623年頃に生まれたとされています(母親の供述によれば1623年)。生まれがわからない為に、書籍やホームページによっては、島原の乱当時の天草四朗の年齢は15歳と記載されたものや16歳と記載されているものなどまちまちです。

 天草四朗の父親は、益田甚平衛好次という人で元は肥後宇土城主 小西行長という人の家臣でした。この小西という人は、キリシタン大名で有名ですね。当然、天草四朗の父親も熱烈なキリシタンでありました。

 しかし、この小西行長は、関ヶ原の戦いで西軍についたために首を切られ、その後は天草四朗の父親も浪人となり、百姓をしていたそうです。

 父親の影響もあり天草四朗も当たり前のようにキリシタンとなります。洗礼名は「ジェロニモ」とちょっとイメージとは違うお名前・・・。

 そして、1637年に島原の乱が起こります。

 この頃は、キリシタン禁圧が進んでおり、特にキリシタンの多かった九州では厳しい弾圧が進んでいました。

 そんな中、島原領内では、蛙千匹が共食いを始め、山犬たちがかみ合い、雲が赤く染まるなどといった天変地異が起きていたとされています。これは、25年前に追放された宣教師が予言していたことではないか!と大矢野松右衛門(天草四郎の父と同じ小西行長の家臣だった人物)らが騒ぎ、元信者たちにキリシタンに戻るよう勧め始めます。

 そして、三吉と角内という2人の農民もかつてキリシタンだった人々に戻ってくるよう勧めたのが発覚し家族ともども捕らえられてしまいます。これが島原の乱の原因です。

 その翌日、三吉と角内のいた有馬村の農民達は集まり、代官を殺し、島原城下に迫り、やがて本格的な一揆となっていきます。

 しかし、2万とも3万とも後に膨れ上げっていく一揆軍。このキリスト弾圧だけが原因というわけではなく、裏には農民に対しての厳しい取り立てへの不満などもあったといわれています。

 さて、天草四郎ですが、この発端となる事件には、まったく関与しておりません。しかしながら、四郎の家族は、キリシタンの組織の中では、すでに名の知れた存在でありました。

 その証拠に、島原の乱勃発の前に天草四郎の母は熊本藩によって捕らえられています。父と四郎はうまく逃げ延びたのですが、母と姉妹が捕らえられており、島原の乱以前から四郎の家族は、藩から目をつけられていたことがわかります。

 島原の乱では、突如、登場したかのような印象を受ける天草四郎ですが、小西行長の家臣であった父の影響もあり、島原の乱の時には、すでに一部のキリシタンや熊本藩には知られていたようです。

 そして、戦闘が本格化していくと天草四郎がリーダーとしてかつがれることになります。

 母親の供述によれば、四郎は9歳から手習いを3年間、その後、学問を学び、長崎に遊学した経験もあるとされています。

 聡明で父の影響から生まれながらにしてキリシタン。一揆側から幕府軍に向けて射られた矢には「かたじけなくも、生まれながらの才知を備えた天の使」などと書かれたものもあるので、一揆側にとっては、彼をシンボル的な存在として祭り上げたのでしょう。

 実際、それは見事に成功し、一揆軍は奮闘を見せます。

 しかし、その後、幕府軍による兵糧攻めや総攻撃により、原城に立てこもった一揆軍は敗れてしまう事になるのです。

 天草四朗の最後についても、実はハッキリわかっておらず、炎の中で自害したとも、首を切られ、その首は長崎でさらされたとも言われています。