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アロー戦争


 
アロー戦争とは1856年〜1860年にかけてイギリス・フランスVSの間でおきた戦争です。

 このアロー戦争の発端はなんてことない事件が始まりでした。

 1856年、アロー号という船に乗っていた船員が広州で逮捕されます。容疑は海賊!まぁ、アヘンの密輸船だったので捕まってもしょうがないですね。

 乗っていたのは殆どが中国人。船長だけがイギリス人だったのですが、こんな些細な?事件にイギリスは噛み付きます。噛み付いたのはイギリスの広州領事パークスという人物です。

「おいおい、その船、イギリスの籍をもってる船じゃないの?何、勝手に捜査してんだよ!しかも、聞いた話じゃ、その船捕まえるときにイギリスの国旗を引きずり下ろしたらしいじゃないの?」

 こんな些細な事件で噛み付かれてビックリの清。必死に取り繕います。

「いやいや、パークスさん。イギリスの国旗なんて船に掲げられてませんでしたよ。だいたい、イギリスの籍はちょっと前に切れてますよ。乗ってたのも殆ど中国人だし・・・」

 しかし、当時のイギリスは強気です。なんたって1840年にイギリスはアヘン戦争にて清に勝ってますからね。この戦争の勝利により香港島の割譲、広州や上海など5港の開港などの清にとって不平等な
南京条約というのをイギリスとの間に結ばされています。

 「パークスのヤツなんかやってんな?」

 と、イギリスのお偉方も動き出します。香港総監ジョン・ボーリングは現地にてイギリス軍を動かし広州の砲台を占領。イギリス首相も遠征軍を派遣。広西省にて宣教師が殺害された事件で抗議していたフランスまでもさそって清に戦争をけしかけます。これがアロー戦争の始まりです。アヘン戦争のすぐ後だったので第二次アヘン戦争などとも呼ばれますね。

 その後はイギリスとフランス軍は広州を一気に占領。清としては、しかたがないので条件を提示するが英仏は納得せず、今度は北上して天津に迫っていきます。もう、こうなればイギリス、フランスの条件を呑むしかない清。1858年に
天津条約という賠償金の支払いやキリスト教の布教、外国公使の北京駐在などを認めました。

 しかし、こんな不条理なことってある?と考える清の人も多かったのでしょう。1859年には天津を訪れたイギリス、フランスの使節艦隊を攻撃してしまいます。これに怒った両国は北京を制圧し1860年には北京条約、賠償金の増額+天津の開港+九龍半島南部のイギリスへの割譲などさらに過酷な条約を結ばされることとなりました。これが
北京条約です。

 アヘン戦争やアロー戦争の敗北は、清朝の弱体化を外国に知らしめることとなり、清が欧米列国のくいものにされていくことになります。