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武家諸法度

 
 武家諸法度(ぶけしょはっと)とは、1615年に徳川家康が臨済宗のお坊さん、金地院崇伝(こんちいんすうえん)につくらせ、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)によって発せられました。

 では、この武家諸法度について少し詳しく見てみましょう。

 武家諸法度が出された1615年には、もう1つ重要な出来事が起きてますね。そう、大阪夏の陣によって豊臣氏が滅亡した年です。

 江戸幕府は1603年に開かれていますが、まだまだ豊臣氏の力は残っていた訳です。1615年に秀吉の側室・淀君(よどぎみ)と秀吉の子である秀頼(ひでより)が自害して、やっと江戸幕府の本格的なスタートを切った年が1615年と思っていいでしょう。

 武家諸法度は江戸幕府が大名に対して守らなくてはならない掟を示したものですが、7代と15代の将軍を除き、基本的には将軍が代わるごとに発布され、少しずつ修正されていくことになります。

 では、武家諸法度の目的とは何だったのでしょう?

 これは、武家諸法度にて特に厳しく取り締まられたといわれる2つの条項を見てみるとわかります。( )内は2代・秀忠の時に出された元和令の原文

新規築城、無断での城の補修の禁止
(諸国ノ居城修補ヲ為ストモ、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事)

幕府の許可なく、大名同士で勝手に結婚しちゃダメ
(私ニ婚姻ヲ結フヘカラサル事)

 1615年の6月に幕府は「一国一城令」を発します。これは「大名は城を1つしかもってはいけませんよ。」という命令。戦国時代の大名はメインの城以外にも支配地域に多くの城を配置していたのですが「もはや平和な世の中になったのだから、そんな軍事的な城はいらないでしょ。」ということで城は1つ残して後は全部壊されます。その後、1615年7月に出された武家諸法度では、新たに城を造ったり、幕府の許可を得ずに直すことも禁止となります。

 幕府は、これにより
大名の軍事力を削ぐ狙いがあったのですね。

 大名同士での結婚の禁止は、いわゆる政略結婚の禁止です。これは、幕府にとって大名同士が幕府の知らぬところで結婚などを通して連帯を強めるとやっかいなので禁止したのですね。将軍と大名とは1対1でなら主従関係がはっきりとわかれますが、大名が束になってしまうと将軍の地位も危うくなりますから
大名同士の連帯を警戒したわけです。

 また、1635年。3代将軍家光の時に発せられた武家諸法度では
参勤交代(さんきんこうたい)が追加されます。参勤交代とは、大名が自分の領地と江戸とを1年交代で往復することを義務づけ、大名の妻子は江戸に居住することとした決まりです。

 これは「平和な世の中になったけど、主従関係はしっかりしとかなくてはならないので将軍に対して忠誠心を見せて挨拶ぐらいは来なさいよ」ということです。
主従関係の維持が目的ですね。

 この参勤交代の費用は多額であり、尚且つそれは大名のお財布から出ていくので大名としてはかなりの痛手だったようです。しかし、この参勤交代の目的を「大名の財力を減らす為」とするのは、ちょっと違うようです。

 家光の時に出された武家諸法度(寛永令)には、「従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。」とあります。「最近では従者の数が多くなり、出費がかさみ領地や領民の負担となっている。今後は、ふさわしい人数に減らしなさい」ということ。つまり、大名の財力を減らす目的で参勤交代が行われていたとするならば、”参勤する人数を減らしなさい”などとは書きませんね。

 参勤交代における幕府の目的は将軍と大名との主従関係の維持。結果的に大名の財力を減らすことになるわけですが、それが目的とみるのは正解とはいえないというのが、現在、歴史研究家の方の見方です。(ネットなどでは、未だ大名の財力を減らすのが目的とされている文章も多いようですが、教科書では大名の負担となったとは書いてあってもそれが幕府の目的であったとは記載されていないはず・・・。)

 難関といわれる大学受験などでは、この辺の絡みが問われることもあるので覚えておきましょうね。