インドの独立〜ガンジーの登場
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1858年のムガル帝国滅亡後、1877年にインド帝国が成立してからはインドはイギリスによって支配されることになりました。
しかし、インドでも民族運動がおこり始めます。民族意識を強くもった人々が立ち上がったのです。
イギリスは、これを強鞭に押さえ込みますが、ドイツとの対立が深まり第一次世界大戦の予感を感じとるとインド人に対して柔軟な態度を見せ始めました。大きな戦争が始まりそうなのにインド人を露骨に敵に回したくはないという判断ですね。
大戦が始まるとインドもイギリス連邦の一員として参戦します。インド人の敵であるともいえるイギリスになぜ強力したのか?それは、イギリスがインドに対して「戦後自治の約束」をしたんです。その約束を信じてインドの民族運動指導者達もイギリスに積極的に協力することにしたんですねぇ。
第一次世界大戦でのインド兵の死者は36000人ほどといわれています。
多くの犠牲を出し、戦後、その約束は守られたのか?残念ながら守られるどころかインド人は酷い仕打ちを受けることになるのです。
1919年、ローラット法。
大戦後、イギリスが民族運動を抑えるために制定した法律です。令状なしでの逮捕、裁判なしでの投獄を認めるといっためちゃくちゃな法律。
「もしかしてさぁ、お前、民族運動起こそうとしてない?なんか、そんな顔してるよねぇ。じゃ、逮捕!」
と、このくらいめちゃくちゃ・・・。
当然、インドの人たちは怒ります。1919年にインド西北のパンジャープ地方で抗議の集まりがありました。しかし、イギリス軍はこの集会に向けて発砲!1000人以上の人々を殺してしまいます。アムリットサール事件です。
おいおい、酷すぎだろイギリス!「戦後自治の約束」はどこいった!?ってことでイギリスは一応、それっぽいことをします。
1919年のインド統治法。
これは、州の行政の民生関係の一部に限りインド人が行うことを認めるということ。つまり、ほとんどはイギリス支配のまま。超限定的にインドの自治権付与って感じです。
そんなインドの状況の中、登場したのがマハトマ・ガンジーでした。マハトマとは「偉大なる魂」を意味する尊称です。
ガンジーが生まれたのは1869年。日本でいうと明治維新の翌年ですね。父親は小さな藩王国で大臣を務めるほどの名門でしたのでイギリスに留学、弁護士の資格を得るといったいわゆるエリートコースを歩むことになります。おっと、ちなみにガンジーは13歳の時にトルバイという女性と結婚していますよ。早っ!
インドに帰ってきてからは弁護士として法律事務所を開きますが、かけひきやハッタリが苦手なガンジーでは弁護士家業ははやらなかったようです。たまたま、南アフリカでインド人商社が顧問弁護士を探しているというのでガンジーは南アフリカへ渡ります。23歳のことです。
しかし、この南アフリカはインドと同じイギリスの植民地。酷い差別を受けるんです。ここで、ガンジーはインド人移民の差別撤廃、待遇改善のために運動を行います。
そして、大戦中に帰国したガンジーは民族運動や労働運動を指導していくことになりました。
このガンジーが行った運動の特徴を2つ覚えておきましょう。
イスラム教徒との連携。
非暴力、非服従。
イスラム教徒との連携とは、インドでは古くからヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立があったんです。それを利用してイギリスは対立を激化させイギリスへの不満をそらそうなどと考えた時期もありました。ガンジーは、ヒンドゥー教徒ですが、イスラム教徒との連携なしにはインドの独立はありえないと考えたのです。
非暴力、非服従は有名ですね。「決して暴力を振るってはいけない。暴力は強さではなく、弱さの現われなのです」とガンジーは皆に伝えます。平和な日本なら納得できますよ。ある程度ならね。コンビニの前でたむろしてるおっかない人にガン飛ばされても我慢するぐらいならできますよ。でも、当時のインドでは、何もしてないのに逮捕されたり、ぶっとばされたり・・・。自分がやられるなら我慢できるとしても家族がやられたらねぇ。それでも我慢しろ!とガンジーは訴えるわけです。スゴイことです。
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「わたしの非暴力」という本は有名。なぜ非暴力なのか?ガンジーの考えをわかりやすく理解することができます。ただし、2巻まであり、1冊3000円以上したと思うので学生さんにはちょっと高いかな? |
しかし!残念なことに1922年にインド民衆が警察署を襲撃し20人ほどの警官を焼死させるという事件が起きます。すると、ガンジーは突如、運動を停止するのです。運動の過激化、暴力化を嫌ったガンジーの決断でした。
これにより運動は一時的に停滞することになります。
>インドの独立A
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