インドの独立B〜インドとパキスタンの分離独立
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イギリスの支配下にあったインド。ガンジーやネルーの登場によりインドの民族運動は活気を帯びてきました。
これにイギリス側は円卓会議を開き妥協に努めます。円卓会議っていうのは、基本的には「仲良くしましょうね」っていうのを目的として開催される会議のことです。しかし、この会議は失敗に終わります。
第1回目の会議にてガンジーは参加を拒否。2度目の会議ではガンジーも運動を中断し参加しますがイギリスはインド人の求めるような独立、自治を与えようとはしなかったため、ガンジーは運動を再開。
1935年には新インド統治法が妥協の産物として成立しますが、これは、藩王国とイギリス直下統治の11州にてインド人による自治を認めるが中央での外交、財政、軍事などは相変わらずイギリスの支配下にあるというものでした。ネルーが唱えた完全なる独立とは程遠い決定です。
ただし、この法律によってビルマ(現在のミャンマー)のインドからの分離が決定しています。
そんなこんなしている時に1939年第二次世界大戦が始まります。第一次世界大戦でもイギリスの味方として兵が出兵させられていたインド。第二次世界大戦でもインド人兵士たちは再び出兵させられることになります。戦争が激化してくるとイギリスはインドに対して、さらなる協力を依頼。「戦争が終わったら君たちに自治権を与えるからもっと協力して!」と頼んだわけです。しかし、第一次世界大戦の時もイギリスは同じような約束をインド人と交わし、見事に破っています。そんな訳ですのでインドの指導者たちは当然のように拒否。それどころか、「クイットインディア運動」と呼ばれる”イギリスはインドから出て行け”という運動が開始されます。これに対してイギリスはガンジーの逮捕で応じました。
1945年。大戦が終わると1946年にはボンベイでインド人水兵の反乱が起きます(インド海軍の反乱)。するとこれと連帯するデモが各地で起こりました。
また、戦後になるとイギリスにとっても植民地経営は必ずしも旨みを伴うものでもなくなってきます。そして、1947年、インド独立法が制定され、ついにインドの独立が承認されました。1948年のことです。
当時のイギリスの首相はアトリー(労働党)。
ただし、インドとパキスタンが分離独立することになるので覚えておきましょう。
インドにはヒンドゥー教徒が多くいますが、イスラム教徒の人たちもいますね。このイスラム教徒(ムスリム)が多かった地域。パキスタンは分離しましょうということにしたんです。まぁ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立も古くからありましたので、そうなったんですね。
1947年8月14日。全インド・ムスリム連合の指導者ジンナーが初代総監としてパキスタンが独立。翌15日にネルーが初代首相となりインドが独立です。
ただし、どちらも独立当初はイギリス連邦内の自治領としての独立でした。イギリス連邦の一員として独立ってことです。
1948年には仏教が多数派を占めるスリランカもセイロンの名で独立。ミャンマーもビルマとして独立します。
ちなみに、ガンジーですが・・・。ガンジーとしては、パキスタンの分離独立は本意ではありません。ずっと、ガンジーはヒンドゥー教とイスラム教の統一国家をめざし活動してきましたからね。大戦前の1944年の「インド国民政府案」でも統一国家を主張していました。
分離してしまえば、国としての力は分散し、宗教対立も起きる!とガンジーは心配していたんです。そして、その心配はすぐに現実のものとなります。ヒンドゥー対イスラムの対立です。両教説得のためにガンジーは働きますが、ガンジーのやり方は甘すぎる!とイスラムではなく、なんとヒンドゥー教徒の青年によって暗殺されてしまうのでした。1948年のことです。
この悲劇の翌々年。インドは新しい憲法を制定。インド共和国となりました。インドはイギリス連邦内にとどまることになりますが、イギリス王国への忠誠は拒否。経済的な結びつきは保持するも政治的には完全な独立となるのでした。
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