久坂玄瑞(くさか げんずい)
|
.
|
|
高杉晋作とともに松下村塾の双璧といわれた久坂玄瑞(くさか げんずい)。
あの吉田松陰からも「天下の英才」と評価され、後に松陰の妹の文(ふみ)と結婚することになる人物です。
では、この久坂玄瑞について少し詳しく見ていきましょう。
久坂玄瑞は、天保11年(1840)5月、藩医の子として生まれますが、14歳で母を亡くすと15歳で兄、父と相次いで亡くし15歳で家督を継ぐこととなりました。
17歳の時に九州に遊学することになるのですが、この時、吉田松陰の友人である宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)に会い吉田松陰に学ぶことを勧められます。
帰藩後、玄瑞はさっそく松陰に向け手紙を送るのですが、この手紙で玄瑞が書いた内容は「弘安の役(元寇)の時のように異国人を斬るべし」といったものでした。
時代は幕末。1853年にペリーの黒船が来航し、攘夷(外国人を日本から追い出せ!)という考えを玄瑞はもっていたんですね。ちなみに松陰も攘夷派。ですから、手紙の内容に賛同してくれるだろうと玄瑞は考えていたことでしょう。
しかし、この手紙に対して松陰の返事は批判、酷評。実は、手紙から彼の非凡さを感じとり、大いに鍛えてやろうといった下心があり意図的にそうしたそうです。ですが、そんなことは露ほどもしらない玄瑞は憤激し再び筆をとり松陰に手紙を送ります。するとそれに対してまた松陰からの批判・・・。
このような手紙のやりとりが続きますが、やがて玄瑞は、松陰の深い考えを知ることなり、約1年後、ついに松下村塾の門下生になることになるのでした。安政4年(1857)のことです。
そして、同年末には松陰に見込まれ彼の妹である文(ふみ)と結婚。
翌年には江戸と京都に遊学しますが、安政6年(1859)に安政の大獄によってあの吉田松陰が処刑されてしまうんです。
しかし、その後、長州の尊王攘夷派のリーダー的存在となっていく玄瑞。
英国公使館焼き討ち、下関戦争などの攘夷活動を起しますが、あまりにも急進的な長州藩ら攘夷派の動きは危険視され彼らは京都から追い出されてしまうことになります。(8月18日の政変)
孝明天皇は外国嫌いだったので攘夷主義者だったんですけど、攘夷派が朝廷内で影響力を強めていったのであまり快く思ってなかったようですね。ですから薩摩藩や会津藩ら公武合体派の意見を聞き入れて攘夷派ら長州藩を京都から追い出したんです。ちなみに公武合体というのは公(朝廷)と武(幕府)が力を合わせていきましょうよって考え。まぁ、本気で外国人を日本から追い出そうと考えたらやっぱり幕府の力は必要ですからね。力を合わせましょうよって考えに孝明天皇も納得していったんですね。
ですが、桂小五郎や久松玄瑞らはこっそり京都に潜伏し、処分緩和のために活動を続けます。
しか〜し!そこにあの池田屋事件が長州藩ら攘夷派に追い討ちをかけることになります。池田屋事件は、御所に火を放って、混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連れ去り、一橋慶喜らを暗殺しようと攘夷派の長州藩、土佐藩、熊本藩ら攘夷派が計画しているとして、攘夷派が旅館・池田屋にて謀議中に新撰組が突入し、長州藩士や松陰の友人であった宮部鼎蔵を斬った事件です。
まぁ、本当に攘夷派がそんな過激な計画をしていたかどうかは不明ですが、長州藩は池田屋事件によって多くの藩士を失い大打撃を受けることになります。
それまでは、慎重派と強硬派に別れていた長州藩も池田屋事件にて強硬派に傾いていくことに・・・。そして長州藩は失地回復の為、京都に軍を進めるのでした。(禁門の変)
この禁門の変にて長州藩は敗北。久坂玄瑞は一縷の望みをもって関白である鷹司輔煕を連れ出し御所に嘆願しようと試みるも失敗。責任をとり玄瑞は自らの命を絶つことになるのでした。享年25。
|
|
|
|