禁門の変(蛤御門の変)
|
.
長州藩 |
VS |
幕府軍 |
|
|
|
久坂玄瑞
来島又兵衛
国司信濃
福島越後ら |
新撰組
薩摩藩
会津藩
彦根藩
桑名藩など |
|
|
1864年7月19日、長州藩と幕府軍は御所の立売門、堺町門、蛤門(はまぐりもん)にて攻防戦を繰り広げました。特に蛤門付近にて激戦が繰り広げられたことから禁門の変は蛤御門の変とも称されます。
しかし、なぜ長州藩と幕府軍が争うことになったのでしょうか?その辺をちょっと詳しく見ていきましょう。
時は幕末。ペリーが浦賀に来航してからの日本は開国か?それとも攘夷(外国人を追い出す)か?で国論が真っ2つに分かれることになります。
長州藩は最初のうちは公武合体派(「公」朝廷と「武」幕府が力を合わせて外国に対抗する)に傾きつつありましたが、後に攘夷派が長州藩のリーダー的存在になっていったことから長州は攘夷派へと移り変わってきます。
そして、外国船を長州藩単独で砲撃するなど過激な行動を起していくようになりますが、この長州藩の急進的な行動や朝廷での影響力の拡大を孝明天皇は快く思いませんでした。
そこで公武合体派の薩摩藩、会津藩の意見に孝明天皇も耳を傾け、遂に攘夷派を京都・朝廷から追い出すことになるのです。
長州藩にしてみれば、「おいおい、マジかよ」って感じでしょうね。仲良しのはずだった朝廷からいきなり出て行けってケツたたかれるんですからね。この出来事を八月十八日の政変っていいます。
さらに長州藩に追い討ちをかけたのが池田屋事件。長州、土佐、熊本藩らの攘夷派がまた過激な計画を立てているとして新撰組が旅館・池田屋に乗り込んだ出来事です。これによって長州藩では多数の藩士が亡くなることになります。
そして、長州藩が失地回復のために京都に乗り込み罪の回復を要求することになるのですが受け止めてもらえず、かくして長州藩は公武合体派の排除、京都奪取の決行に踏み切ります。これが禁門の変です。
1864年7月19日。長州藩と会津藩が京都蛤門付近で激突!福岡藩が守る中立売門では長州藩が門を突破し京都御所内に入り優勢になるも、その後、西郷隆盛率いる薩摩藩がこの戦いに介入すると形勢は逆転となり長州藩は敗北することになるのでした。
この禁門の変で長州勢は逃走の際に火を放ち大火事となったことから京都の人々から恨まれることになり、さらに御所内に向け発砲したため「朝敵」となってしまいました。
そして、その後、長州藩は長州征伐や外国船砲撃の報復など踏んだり蹴ったりが続きますが、長州藩の藩論が倒幕に傾くと敵対していた薩摩藩とも同盟を組み薩長同盟を実現。倒幕の道を歩んでいくことになります。
|
|
|
|