イラクへの経済制裁の失敗
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1990年8月。イラクのクウェート侵攻により湾岸戦争が始まりました。この時、国連はイラクに対してすほぼべての輸出入を禁止するという経済制裁を下します。
湾岸戦争の後もイラクへの経済制裁は続くのですが、さすがにそれでは民間人に被害が及びすぎてしまったんですね。だってほぼすべての輸出入が禁止ってなったら日本だってヤバい訳です。食料品は入ってこない。家電や車の輸出はできない・・・。イラクも食料の3分の2は輸入に頼っていたんです。ですから深刻な食糧不足に陥ります。さらにいえば、戦争で連合軍にボロボロにやられた後ですからね。上下水処理場や電気通信設備も破壊されていたんです。そんな時に経済制裁ですからもう、無理です…って感じですね。
この経済制裁によって食料不足、医療品不足などにより50万人もの子供が亡くなったともいわれています。
そこで国連は、1995年に年間40億ドルまでなら石油を輸出してもいいと経済制裁を緩めます。
ですが、そのお金で、また戦争に使う武器とかを購入にあてられたらたまったものではない訳です。実際、フセイン大統領の住む宮殿なんかは経済制裁中でも増設したりしていましたからね。石油を輸出して得たお金が民間人の人道物資に使われる保証がないんです。
そこでイラクが石油を輸出したらまず、購入した企業は国連が管理する銀行にお金を振り込むことにしました。イラクは食糧や医療品など人道物資で必要なものを国連に提出します。国連はそのリストを見て企業から銀行に振り込まれた金額の60%まででイラクに人道物資を渡します。残りの30%は湾岸戦争の賠償金にあてられ、さらに残りの10%はイラクで活動している国連の資金となります。
これなら、イラクから輸出された石油は民間人の生活に必要なものに使われるので安心ですね。
しかし、欠点がありました。イラクがどの国のどの企業に輸出するかまでは決められていなかったんです。そこでイラクは中国、ロシア、フランス集中して石油を輸出します。
中国、ロシア、フランスは国連の常任理事国といって国連の中でも拒否権というのがあり、力を持っています。
「石油をいっぱい輸出してあげるからさぁ、ちょっと経済制裁を緩めてくれない?」というイラク側の作戦ですね。
実際、イラクへの経済制裁は段階的に緩められていきます。輸出の上限が徐々に上がっていき1999年には上限撤廃です。結局、イラクの石油輸出額は湾岸戦争以前にまで復活してしまいます。
また、中国はイラク全土に光ファイバーのネットワークを建設します。イラク軍の防空施設をネットワークで結ぶわけで2001年にアメリカ軍が空爆で拠点を破壊しましたが、もはやイラクへの経済制裁が本来の意味をなさなくなってしまったことの現れですね。
湾岸戦争直後の経済制裁ではイラクの民間人に多くの死者を出す結果となり、人道的に許されないということで経済制裁は緩められていきます。しかし、その中で各国の思惑が入り乱れ結局は経済制裁が形骸化してしまった訳です。
経済制裁もやりすぎてしまうとそこに住む民間人をただ苦しめるだけの結果となってしまいますし、各国の足並みをそれ得なければ、イラクのように小さな子供を中心に50万人もの命を奪うだけの結果となってしまいます。日本は、アメリカとの足並みをそろえるのは得意ですが、その他の国とも密な話し合いが必要ですね。
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